9.
私たちは施設の警備室を訪ねると、そこで入構証を受け取った。上原さんが予めその手順を電話で訊いていた為、すんなりとやり取りが交わされる。
警備の人に研究室の場所を教えて貰い、私たちは迷うことなく目的の部屋へたどり着くことが出来た。
研究室は、施設内に建てられている二階建ての研究棟の、一階奥にあった。
壁に並んだ扉の一つに、「民俗環境機能研究室」と書かれた木の板が掛けられている。扉の脇には、記名された磁石シートを並べたホワイトボードがあり、研究メンバーの居場所を報せるようになっていた。それを数えると、メンバーは六人。そのうち三人が在室に、二人は実習林に、一人は帰宅になっている。……帰宅になっているのは、「今井」のシートだった。
上原さんは、扉をノックすると共に、「こんにちは」と中へ声を掛ける。返事が中から聞こえたので、上原さんはゆっくりと扉を開け、中を覗き込んだ。
部屋の中には、資料が積み重なった机や、パソコン、キャビネット、実験道具など様々なものが雑然と配置されていた。そして、机の一つに腰掛けていた男性が立ち上がって、こちらに歩み寄ってくる。
ジーンズにTシャツというカジュアルな格好で、少しくたびれているような雰囲気だ。年は恐らく、三十代半ばくらいだろう。
「すみません、今朝電話した上原と申しますが」
「ああ、はいはい。僕が対応した柳沢です。……いや、ご家族の方も心配されてるでしょう。ただ、こちらも事情は全く分からないんで、お役に立てるかどうか」
怪しまれないようにするため、上原さんは今井さんの親戚だと嘘をついているらしい。
「いや、お忙しいところ恐縮です。……あ、私こういう者です」
言って、上原さんは羽織ったシャツのポケットから名刺を取り出し、柳沢さんに差し出した。正直、吃驚した。会社員ならともかく、上原さんは……。
そこまで考えて、上原さんが何をしている人なのか全く知らないことに気がついた。あの家と神社を相続するために、こちらに移ってきたというのは知っていたけれど、それ以外のことは分からない。
引っ越す前はどこにいて、何をしていたんだろう。
年齢的に、働いていたとしてもおかしくない。こちらに移ったということは、仕事を辞めて来たと考えるのが自然だった。
「ああ、これは丁寧に……。えっと、私の名刺は……ちょっと待って下さい」
名刺を受け取った後、柳沢さんは自分の机まで戻って、引き出しを探っていた。
私は何気なく上原さんを見上げる。そうしたら、上原さんは少し笑って、こっそり私にもその名刺をくれた。
名刺には、上原保則と書かれている。そういえば、今まで下の名前も知らなかった。
そして名前の上には、なんと行政書士と書かれている。
私は少し驚いて上原さんを再び見たが、彼は柳沢さんの方に視線を向けていた。
電話番号と住所は、どうやらあの家のものらしい。
行政書士が、実際にどういう仕事をするのか、正直良く分かっていない。でも、その資格を取ることは、凄く難しいということだけは知っていた。
「お待たせしました。私はここの研究員の柳沢です。さて、じゃあこっちで少しお話しましょうか」
柳沢さんは上原さんと、そして私にも名刺を差し出すと、研究室の隣の部屋へ移動した。部屋の名前は教授室になっていたが、室内には誰もいない。教授の机は空で、私たちはその手前にある応接セットの椅子に腰掛けた。
「ええと、何から話しましょうか」
「そうですね、まず今……ユウ、がですね、え〜どこにいるかは分からないとして、昨日の昼早退したときのことをお話いただけますか?」
上原さんは、「今井さん」と言いかけたところを上手くユウと言い直したようだ。
確かに親戚なのに姓で呼ぶのはおかしいだろう。私は不謹慎ながら、内心笑ってしまった。
「早退したときのこと……ですね。ええと確かですね、あれは何時頃だったかな。多分13時くらいでしたか。確か親戚が入院したとか何とか」
柳沢さんがそう説明しかけたところへ、「失礼します」と一人の女の子が入室してきた。お盆に冷たいお茶の入ったグラスを乗せて、こちらに歩み寄ってくる。
「ああ鈴木さん、有難う。……ねえ、昨日今井さんってなんで早退したんだっけ?」
鈴木さんと呼ばれた子は、私とほとんど年が変わらないように見えた。グラスをテーブルに並べ終えると、お盆を両手に抱えて小首を傾げる。
「ええっと、こっちに住んでいる親戚が倒れたとかで、様子を見に行きたいから帰るとか……。食堂でご飯食べ終えて、休憩してたときからソワソワしてましたよ。……ご親戚の方は大丈夫だったんでしょうか?」
その質問は明らかに、上原さんに向けられていた。
上原さんは一瞬答えに詰まっていたけれど、笑みを見せて頷く。
「……ええ、はい。私の母です。いや、軽い……熱中症、だったみたいで今は、元気です。いやでも、母はユウとは会ってないらしいんですよ」
思いつきでよく話せるものだなあと、関心してしまった。
一方柳沢さんはそれを聞くと、深刻な顔つきで頷いた。
「では、病院に向かう途中で何か……」
「……そう、ですね。あの、出て行くときにユウは、他に何か言っていませんでした?」
「どう? 鈴木さん」
どうやら、柳沢さんよりも鈴木さんの方が、今井さんのことを知っているらしい。年が近いから、一緒にいることも多いんだろう。
「う〜ん、今井さん急いでたから……。あ、市街へ行く道を聞かれました。多分、病院がある場所だと思うんですけど、白河市街の地図をネットから出してましたよ」
「……ああ、総合病院ですかね」
上原さんは改めて確認するように呟くと、顔をしかめて黙り込んだ。そのまま沈黙が続くかと思ったら、上原さんは思い出したように顔を上げる。
「ユウは、車で病院に向かったんですか?」
「え? ああ、それは……そうなんじゃないですかね。東京からも車で来たみたいだし。だよねえ、鈴木さん」
「う〜ん、地図出してたぐらいですからね。ここからバスも出てますけど、車で行った方が早いんじゃないですか? あとは、宿泊所の駐車場見れば確実に分かりますけど」
「宿泊所は近いんですか?」
「ええ、ここから歩いて5分くらいのところです。案内しましょう」
帰りの車の中、上原さんはずっと黙り込んだまま、難しい顔をしていた。
今井さんの車は、宿泊所の駐車場に停められていた。
今井さんがどこでどのように失踪してしまったのか、全く分からない。でも、車は残っていたから、もしかしたらこの周辺で何かあったのだろうか。
「……でも、今井さんはシロと一緒なんだし、きっと大丈夫ですよね」
沈黙に耐え切れずにそう言えば、上原さんはちらりとこちらに視線を寄越して、頷いた。
「そう、信じたいけどね」
「……だって、シロって神様のお使いなんですよ? 例え相手が妖怪だろうと、神様には敵いませんよ」
「案外妖怪だったら、そうかもね」
意味深なことを言って、上原さんは少しだけ笑った。
山間に伸びる道路には、車は一台も走っていなかった。この辺りは、まだ実習林の敷地内なのだと聞いた。道幅も狭い。大きな通りに出るには、もう少しかかるだろう。
上原さんは何を思ったのか、道の脇に車を一旦停止させた。
「ねえ、坂下さん。……本当に怖いのは、神様や妖怪じゃない。人間の方がはるかに残虐で卑劣なんだ。……僕は正直、今回の事件が恐ろしい」
「……上原さん」
「君もね、本当は、知らない男と二人きりで出かけたりしちゃ、駄目だよ」
以前にも、同じようなことを言われたような気がする。
私はなんて答えればいいのか分からなくて、ただ上原さんの顔を見つめた。
……まだ昼間だったけれど、密集した木の陰に入ったせいか車の中は薄暗い。
ハンドルに手をかけたままこちらを真っ直ぐ見る上原さんの視線と、そして低く落としたその声に、私は硬直してしまった。
突然、どうしたのだろう。
「上原さんは、もう、知らない人じゃないですから……」
なんとか言葉を絞り出して言えば、上原さんは左手をハンドルから離して、こちらに手を伸ばしてきた。
私は思わず身を引いた。助手席のドアに肩がぶつかる。
そんな私の反応を見て、上原さんは声を上げて笑った。伸ばした手は、私の頭の上にポンと置かれて、すぐに離される。
「まあ、僕は大丈夫だよ。それに、大変な守り神がついている君に手を出そうなんて、考えたくもない」
「……え? 守り神、ですか?」
「そう、二人のおキツネ様がいるじゃない?……もう、彼らに頼るしかないなあ。善良な人間は無力だね」
上原さんはそう言って、車から降りた。