12.


 突然の声に高鳴る鼓動を押さえ込みながら恐る恐る振り返れば、そこには一人の男が立っていた。
 降り注ぐ日差しの中で、ふらりと一歩、こちらに足を踏み出す。
 私は逃げたい気持ちでいっぱいだったけれど、まるで金縛りにあったかのように、足はぴくりとも動いてくれそうにない。
 男の顔は、不気味なほど暗く、土気色をしていた。
 着ている衣服は薄汚れ、髪はごわついている。
 人と呼ぶには、異質な存在だった。
 全身に、鳥肌が立つ。
 また一歩、男が歩を進めた。
「怖がることはない。……君を傷つけるつもりはない。むしろ、助けてやろうと言うんだ」
 そんなことを言われても、すぐに信用出来るわけがない。
「……ツ、ツキミ様」
 思わず、その名前を呼んだ。
 私に憑いた狐様ならば、その呼びかけに応えてくれるんじゃなかろうか。
「奴らなら、来ない。呼んでも無駄だ」
 男は、まるで全てを知っているかのように言った。
 私がなぜ今ここにいるのか、何を追っているのか……。
 彼は、口の端を引き上げると、また一歩近付いた。私たちの間にはもう、わずか三歩ばかりの距離しかない。
 土の臭いと、微かな腐臭……そして、獣のような臭いが、一層強まった。
「あなたは、誰?」
「……俺か。ふん。……まあ、わざわざ君を欺く必要もないだろう。俺は狐だよ。分かるだろう」
 男ははっきりと、自分を狐だと言った。私は顔をしかめて男を凝視する。
 私の知っている狐は、もはや動物の狐だけではない。
 ……けれど、薄汚れた人の姿をして、足がすくんで動けないほど恐怖を与えるこの存在が、ツキミ様やシロたちと同じ狐だとは思えなかった。
「そういう君は何者だ? なぜ、俺を追う? それに君は……そうか、鍵を、持っているのか」
 突然男の手が伸び、私の身体ごとショルダーバッグを引き寄せた。
「……だめっ」
 強引に引っ張られたことで、地面に叩きつけられた私は、それでもバッグを奪われまいとすがり付く。
 男はバッグを掴み上げながらも、私の顔を興味深そうにまじまじと見つめた。
「お前には必要のないものだろう。……この鍵の意味を知っているのか」
 男はバッグの中身をまさぐると、石の鍵を取り出して、私の目の前にかざす。
「……これは……」
 私は、上原さんの言葉を思い出した。
初めて彼らに出会った日。日常から、非現実的な世界へと誘い込まれた、あの日。
 上原さんが、宝珠と鍵の意味を教えてくれた。
「これは、宝珠の力を引き出す、鍵……?」
 私が答えれば、男はクッと笑った。
「と、言われているようだな。……だが、これは所詮偶像に過ぎんさ。……これら、宝珠と同じように」
 男は言うと、放るようにしてその鍵を地面に落とした。ガツンと硬いものがぶつかりあう音がする。見れば、地面には沢山の宝珠が落ちていた。
 大きいもの、小さいもの……なぜこんなところに沢山落ちているんだろう。これは今、警察署に保管されているのではないか。
「……じゃあ、なぜ宝珠を集めたの?」
 震える声で、訊いた。
 この男が集めたと決まっているわけじゃないけれども、でも恐らく……。
「儀式さ」
 男はあっさりと、応えた。全部自分がやったんだと、肯定したのだと思った。
「疫を払うために祭りを行うのと同じだ。何かを為すためには、儀式が必要なんだ」
「……何のために、儀式を……」
「さて、それは言わん」
 男は言うと、ぐいっと私の腕を掴み、引き上げた。
 私はよろめきながらも、何とか立ち上がった。間近に、男の身体がある。嫌な臭いが、鼻腔を刺激する。
「ともかく、俺にはお前が必要だということだ」
「……な、なんで?」
 私は身をよじってなんとか逃れようとするが、男は痛いまでにがっちりと私の腕を掴んで、離さなかった。
 男はぐっと顔を近づけると、笑みを漏らしながら、私の問いに応える。
「言っただろう。石で作られた鍵は偶像に過ぎん。……鍵は、これを運んで来たお前自身だ」
 そう言われた瞬間、身体の奥底から何か冷たいものが全身に駆け巡り、一瞬にして総毛立った。
「嫌っ!!」
 渾身の力で男の手を振り払うと、私は踵を返し全速力で走り出した。
 ……怖い。
 宝珠を集めた男……いや、集めさせた男。私は直感で一つの事実を察した。
 この男が、山崎を使って宝珠を集めさせ、そして殺した。
 私はがむしゃらに森の中を走りぬけた。ガサガサと枯葉を踏む音だけが響き渡る。男が追って来ているのかどうかも分からなかった。
 やがて息が切れ始め、足取りも鈍くなっていく。木の根につまづき転びそうになりながらも、なんとか踏みとどまった後、私は恐る恐る振り返った。
 そこには、誰もいない。
 ほっとして前を向き直した瞬間、びゅうっと突風が吹き巻いて私の視界を遮った。
「どんなに走ろうと、俺から逃げることは出来ない」
 ハラハラと枯葉が舞い落ちる。
 男は最初からそこに居たかのように、私の目の前に立っていた。
 頭はがっくりと項垂れ、両腕はぶらんと垂れ下がっている。その表情は分からない。男の異様な立ち姿に、私は声を無くした。
「この身体もこれ以上は保つまい……」
 男は忌々しげにそう呟いた。
 そうして、ゆっくりと顔を上げる。
 真っ赤に充血した目がギロリとこちらを睨みすえた。
「……いいだろう。取引と行こうか。俺の儀式に協力してくれるならば、お前の願いを一つ叶えよう」



index/back/next