13.


『こっちに寄るんじゃない、この馬鹿女!』
 しわがれた金切り声が、辺りに響き渡った。
『何度言ったら分かるんだい! 私はあんたを認めないよ! 私の可愛い息子をくれてやるもんかっ。ああ、そうやって私を苛めるのかい。私の全てを奪っていくのかい……』
 こんなに身体の小さな人から、なんて悪意に満ちた言葉が出てくるのだろう。
 私は罵声の先に立ちながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
 お母さんは泣いている。
 毎日罵声を浴びてるせいで精神を弱らせ、やがて塞ぎこむようになった。
 家の中はめちゃくちゃだ。お父さんも疲れてる。毎日残業をして、何とか状況をよくしようとしてる。
 病気だから、仕方が無い。
 誰もがわかっている。
 私のおばあちゃんは認知症だ。
 酷い認知障害と、暴言、暴力の毎日……。
 それは、本来の彼女の姿じゃない。昔は気難しいながらも、ちゃんと思いやりを持った人だった。何より孫の私を可愛がってくれた。
 なのに、おばあちゃんはもう、私のことを分かってくれない。
 おばあちゃんのせいで、私の家族は崩壊寸前だ。誰もが疲弊してる。弟も、家に寄り付かなくなった。
『介護ホームには、まだ空きが出ないの?』
 お母さんの暗い声が聞こえる。
『いっそのこと、死んでくれればいいのに』
 そんな酷いことを言わないで……。姑の苛めに耐えながらも、これまで明るく家族を守ってきてくれたのに。
 ……全部、おばあちゃんが悪いんだ。
 おばあちゃんがいなければ、私の家族は幸せに過ごせたのに……。



「……お前の願いは、祖母の死か?」
 男の声に、私はハッと我に返った。
 さっきのは、一体なんだったんだろう。まるで夢を見ているような気分だった。とても、悪い夢……。
 考えたくない。
 誰かに、死んで欲しいなんて、そんなこと思いたくない。
「違う! 死なんて願ってない。……ただ、おばあちゃんの病気が治って欲しいだけ……」
 そう、分かってる。悪いのはおばあちゃんじゃなくて、病気なんだ。
「……そうか。ならば、元に戻してやろう。優しかった頃の、お前のおばあちゃんに……」
「あ……」
 何も、答えられなかった。
 こんな取引、きっと悪い結果しか生み出さないに決まってる。
 男が何のために儀式を行うのかも分からない。
 私がこの取引を受けて男の願いを成就してしまったら、いったいどんなことになるんだろう。
 けれど、男の言葉には抗いがたい力があって、私は拒否の言葉を発することが出来なくなっていた。
 おばあちゃんが元に戻れば、私の家族も幸せになれるだろうか。
 そう思った瞬間、激しい頭痛が私を襲った。
「ううっ……」
 両手で抱え込むようにして頭を押さえて、私は男の姿を見た。
 ゆらりと崩れ落ちる男の身体。
 地に伏せた男の身体から、陽炎のような黒い影が立ち昇った。
 やがて、その影はゆっくりと形を成していく。
 鋭い牙と紅く光る獣の目……尖った耳に、先の分かれた尾……。
 それは、通常の何倍も大きな狐の姿をとった。
『さあ、答えろ! 我が力になると言え! そうすれば、お前の願いは叶うのだ!』
 怒声にも似た、地響きのような声が響き渡った。
 頭痛はなおも酷くなる一方だ。
 私はぎゅっと目を瞑ると、ただ、彼らの名前を叫んだ。もう、何も考えることは出来なかった。



「……シロ! あそこだ!」
 失いかけた意識の端に、声が聞こえた。
『ギャウ!!』
 獣の悲鳴が聞こえる。それと同時に、私を襲っていた頭痛が突然消え去り、私は恐る恐る目を開けた。
 地面がすぐ近くに見える。
 私はいつの間にか地面に倒れてしまっていたようだ。
 目の端の方で、白い塊が三つ、黒い影に襲い掛かっている。黒い影はもんどりを打ちつつも、何とか立ち上がって、威嚇体勢をとった。
「坂下さん!」
 もはや懐かしいとも思える声が聞こえ、私は安堵した。
「……上原さん」
 力強い腕が、しっかりと私を支え、起こしてくれる。
「大丈夫?」
「はい、なんとか。……一体、どうなって……」
 私は重い頭を軽く押さえながら、今度はしっかりとその光景を見た。
 三匹の白い狐が、一匹の黒い狐と対峙していた。
 どの狐も普通の大きさじゃない。その体長は、人間の大人の背丈ほどはあるだろうか。
「あれは……ツキミ様とミズキ様に……シロ?」
「うん、間に合ってよかった」
 私は上原さんに支えられて、立ち上がった。そこへ、今井さんが歩み寄ってくる。
「どうやら、無事のようだね。……となると、問題はあちらだ」
 今井さんは四匹の狐の方を見やると、彼らに近付いていった。
「あ、今井さん……危な……」
 私が引き止めるのを全く聞いていない。スタスタと急ぎ足で一匹の白狐の元にたどり着くと、その身体を一撫でしている。
「だ、大丈夫かな……」
 私が上原さんを見れば、彼もやや呆れたような顔をしていたが、とりあえず頷いた。
 そして、視線を少し外れた場所に移す。
「……あれは」
 そこには、一人の男が倒れている。
 上原さんは男の元へ数歩歩み寄り、けれど、すぐに足を止めた。
「篠沢……か?」
 上原さんはそう呟いて、すぐに私の元に引き返してきた。その顔はやや、青ざめている。遠目から見ても、衣服から出た男の肌は、黒紫色に変化していた。少なくとも先ほどまでは、普通の肌色をしていたはずなのに。
『……さて、どう処理するか』
 そんなミズキ様の声が聞こえて、私はそちらへ視線を移した。
 黒い狐は恐ろしい表情をしながらも、ピクリとも動かない。
 今井さんは、両腕を組んで黒い狐を眺めていた。
「お前は人を殺しているから、このまま放置するわけにはいかない」
 腕組を解いたその手には、何か、紙切れのようなものを持っている。
『人間ごときが、大層な口を利く』
 黒い狐は呻いた。しかし、次に口を開いた今井さんの言葉に、狐は凍りついたように身を強張らせる。
「コウリ」
『なぜ……知っている』
「伝わってるからだよ。人間の口伝を侮るなかれ、だね」
『クソッ……人間ごときに……囚われるものか……!』
 その瞬間、黒い狐が大きく跳躍した。……あっという間だった。
 最後に見たのは、黒い狐の口の中の赤と、黄ばんだ鋭い牙。そして、私を抱くようにして庇う、上原さんの首筋だった……。



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