14.
『……ユウ、これからどうする?』
シロの声が、聞こえた。
私はまどろんだまま、その声を聞きながらも、体を起こすことが出来ずにいた。全身が動くことを拒否している。頭も思考を拒否していて、ただ、聞こえてくる声に耳を傾けていることしか出来なかった。その金縛りにぼんやりと抵抗してみたら、薄く目を開くことが出来た。
目の前には、銀色の容器が見える。どうやら、台所で用いるボールのようだ。
そのボールには大粒の水滴がついていて、その一粒一粒にぼんやりと、自分の顔のようなものが映っていた。私は、どうやら布団に寝かされているらしい。
「さあ……とにかく、上原さんが起きてから考えるよ。上原さんの意識が残っているかどうかは分からないけど、そうなったらそうなったで、改めて封をするだけだ」
今井さんが、いつもよりも深刻そうな口調で、シロの問いに答えた。
私は視線を動かして、その声の主を探す。ボールの上の方へ視線をずらせば、思ったよりも近い位置に今井さんの姿が見えた。片膝を立てて、向こうの方を見ている。
その先にはシロがいるのだろうけれど、ボールと今井さんの体が邪魔をして、姿を確かめることは出来なかった。
『ユウが、のんびりしているから』
シロから非難の声が投げかけられた。ただ、その声は落ち着いていて、特に怒っているわけではないようだ。
今井さんはしばし沈黙した後、答える。
「お前だって、あっさり捕まったじゃないの。お互い様だよ」
あからさまにへそを曲げたような口調。シロは鼻で笑ったようだった。
私は視線を周囲に巡らせた。辺りは薄暗い。本来なら、とっくに電気をつけていい時間のようだ。
天井からぶら下がる電気傘は、四角い木の枠に和紙を貼り付けた純和風のもの。天井も木材で覆われている。もしかしたら、上原さんの家なのかも知れない。
『ユウは、大丈夫か?』
「……何が」
『コウリにやられただろう。何か後遺症は残っていないのか』
今井さんに、後遺症? 私はびっくりして、それでも緩慢な動きで、今井さんに視線を戻した。今井さんは少し笑って、膝の上に置いた自分の左腕を持ち上げた。
「実は、まだ左の肘から下が麻痺してる」
そう言って、ぶらぶらと腕を動かした。力の抜けた手首が、がくがくと揺れている。
……と、その腕を白い手が捕まえた。鋭い爪が少しだけ、今井さんの腕に食い込んでいる。シロは、どうやら今、人の姿をしているようだった。
『見せてみろ』
「……そのうち、戻るよ」
今井さんはその手から逃れるように腕を引くが、手はがっしりと今井さんの腕を捕まえていた。
シロが乗り出すようにして、今井さんに体を寄せる。面長で、涼やかな容貌が見えた。薄暗い部屋の中で、真っ白なシロの姿は微かに発光しているかのようで、とても神秘的だ。本当にこの世に存在しているのかと、疑いたくなる。実は、私は幻覚を見ているのではないだろうか、と。
シロは、一見無表情だけど決して冷淡ではない面持ちで、今井さんの顔を見た。シロを見返す今井さんの表情が見えないのがとても残念だ。
そして、シロは今井さんの左手に視線を移す。もう一方の手で、今井さんの左手を取り、指や手首の関節を動かした。
その手の先にいる私は、シロと目が合いそうな気がして、思わず目を閉じた。私が目覚めていることを、知られてはいけないような気がする。
思わずドキドキしてしまった。
『ひと月ほどはかかりそうだな』
「まあ、そのぐらいで戻るんなら上々でしょ」
『……お前はなんでそう、楽天家なんだ』
シロの呆れたような声。片目だけ開けて様子を見れば、シロは苦笑して今井さんの手を離したところだった。その手で今井さんのフワフワの髪を、かする程度に一撫ですると、今度はバッチリと私の方に視線を移した。思わず硬直してしまう。
『さて……小娘も目覚めているようだ。そろそろ男も起きるだろう』
シロは目を細めながら、はっきりとそう言った。今井さんも珍しく慌てたようにこちらを振り返る。
私は観念したような心持で、そっとため息をついた。
今井さんが立ち上がって、頭上にぶら下がっていた紐を引けば、パッと蛍光灯の白い光が部屋を包んだ。
まぶしさに、思わず顔をしかめる。いつからか金縛りが解けていた体をゆっくりと起こして、辺りを見回した。
部屋には、今井さんとシロ。そしてシロの向こう側に、私と同じように布団に横たわる上原さんを見て、思わずあっと声を上げた。
「上原さんは、大丈夫なんですか?」
問うように視線を上げれば、今井さんは立ったまま、困ったような表情を浮かべた。
なかなか答えがもらえず、私は再び上原さんに視線を戻す。
上原さんの顔は土気色をしていたので、私は慌てて立ち上がって、近寄ろうとする。それを、今井さんに阻まれた。
「ごめん、まだ、近寄らない方がいい」
それでも身を乗り出す私を、今井さんの体が押し戻す。右手でしっかりと肩を掴まれていた。
「……上原さん……い、生きてますよね?」
「そう……だね、まあ、生きては、いる」
なんでそんな微妙な答え方をするんだろう。私はもう一人の答えを求めるために、視線を下へおろした。無表情なシロが、真っ直ぐこちらを見返していた。今井さんを見るときよりも、幾分か冷たい視線のように感じた。
『はっきりと言ってやったらどうだ。……正直、生きているか死んでいるか分からない、とね』
……そんな。
私は言葉を失って、ただ、その真意を確かめようと今井さんの顔を見た。
今井さんは、生きていると言った。なのに、シロの言葉はそれを軽く否定したようなものだ。
命がけで守ると言ってくれた、上原さんの笑顔を思い出す。
今井さんは私と視線を合わそうとせず、代わりにため息をついた。
「……あ、……あの、ツキミ様たちは?」
私の味方が欲しかった。ツキミ様とミズキ様は私にとって、近く、親しみを持つほどの存在になっていた。この短い期間の間に、何があったわけでもないのに。
今井さんは更に苦々しい表情になりつつも、しぶしぶと口を開いた。
「彼らは……彼らの領域に帰ったよ。とりあえず宝珠を盗った犯人は分かったし、ね」
「……帰った?」
「そう。……坂下さんに憑いた因縁も、これで解かれたはずだ。まあ、しばらくはその余韻も残るだろうけど」
そんな、あっさりと。
というのが、私の気持ちだった。何だか分からないままに取り憑かれ、何だか分からないままに解かれてしまう。
それが、狐に憑かれるということなんだろうか。
正直、何の実感もわいてこない。
そもそも、宝珠を盗った犯人が分かれば、それで全てが解決だと言うのだろうか。
「……宝珠を、盗った犯人って……」
「坂下さん、とにかく今は混乱してるだろうし、今日はもう遅いから」
今井さんがそう言って、私を落ち着かせようとするのが分かった。
私は上手く働いてくれない頭を抱えながら、何とかあの時のことを思い出そうとした。けれども、今井さんが私の肩を強く揺さぶるので、考えがまとまらない。
私は仕方なく、今井さんの言うことを聞くことにした。
「……とにかく、ね。坂下さんにはちゃんと説明するから。でも今ね、もう夜の七時を過ぎてるから。坂下さんも、叔母さんに連絡を取らないとまずいでしょ? なんて言って出てきたかはわからないけど、とにかく電話の一本くらいは入れないと」
今井さんの言うことはもっともだった。
私はようやく現実に引き戻されたような心地で、慌てて自分のバッグを探した。私のショルダーバッグは、部屋の片隅に置かれていた。少し、土で汚れている。私はその中から携帯を取り出すと、叔母さんに連絡した。
部屋から出て、廊下で叔母さんが電話口に出てくれるのを、待つ。夕飯時で忙しくしているのだろう。数分後、保留音が途切れて叔母が出た。
「里緒〜? あんた今何時だと思って……」
そんな叔母の言葉を遮るようにして、今日は、友達の家に泊まると言った。
叔母は明らかに戸惑っているようだったけれど、とにかく謝って、何とか頼み込んで、電話を切った。今帰ったところで、きっと落ち着かない。
ちゃんと、全てを知りたい。そして、上原さんが目覚めるまで、絶対に帰らないと心に決めた。