15.
今井さんが買ってきてくれていたコンビニのおにぎりを食べながら、私は今井さんの話を聞いた。
こんなときに食事が喉を通るなんて思わなかったけれども、意外とお腹は空いていたようだった。それもそのはず、今日はお昼を食べていないことになる。
今井さんは、事件のニュースを聞いた後、研究室を早退しすぐに物の怪道に入ったらしい。市街の地図を出したのは、病院ではなくて警察署の場所を確認したかったからだそうだ。警察署には宝珠が保管されている。宝珠を確認すれば、今井さんが思い至った犯人の、証拠がつかめると考えたらしい。
しかし、残念ながら物の怪道を移動する途中、何者かの邪魔が入った。
今井さんとシロは、どこかも分からない山中へ放り出されたらしい。
「……今井さんはニュースを聞いた時点で犯人が誰か分かったんですか?」
私は、さすが今井さんだなあ、と感心しつつ、質問を挟んだ。
「誰か、というよりは……まあ、犯人が人間じゃないということは、何となく分かったから」
「……人間じゃ、ない」
私はつい先ほど自分に起こったことを思い出して、改めてぞっとした。
腐臭の漂う土気色をした男……そこから姿を現した、黒い影。
「あれは……なんだったんですか? 私に、取引を……」
「……うん、坂下さんがあいつの取引に応じずにお狐様の名前を呼んだから、何とか間に合ったんだ」
今井さんはそう言って、私を安心させるように微笑んでくれた。
「あいつも狐なんだよね。とはいえ、シロたちとはちょっと違う。あいつは、言うなれば狐の妖怪というところかな」
「……妖怪、ですか」
「元は動物の狐だったんだろうね。……けれど時が経つにつれ、妖気を持つようになった。実はここ最近、市立図書館とか民俗資料館とかでね、白河の説話を調べてたんだ」
「説話?」
「簡単に言うと民間に伝わる昔話っていうところかな。まあ、ほとんどが非現実的な物語ばかりだけど、これが侮れない。民俗学っていうと難しい感じもするけどね。……で、この辺りに狐に関する説話があることを知ったんだ」
「どんな説話だったんですか?」
私が訪ねれば、今井さんは複雑そうに笑って、答えた。
「……人になりたい狐の話」
『その表現には語弊があるようだ』
暗い男の声が聞こえて、私はハッと身を強張らせた。
今井さんは即座に反応して、声が聞こえた先へと視線を走らせた。
横たわっていた上原さんが、ゆっくりと体を起き上がらせる。少しだけ笑みを浮かべて、自分の手や腕を見回した後、こちらに視線を寄越した。
『正しくは、人に報復したい狐の話だ。……人になるのは、そのための手段でしかない』
その言葉を聞きながら、今井さんはゆっくりと片膝を立て、相手の出方を伺った。シロはそんな今井さんを庇うようにして、同じように姿勢を中腰に保っている。
「やっぱり、乗っ取られたか……」
今井さんが悔しそうに呟く。
私はその意味が分からず、ぼんやりと上原さんの姿を眺めていた。
上原さんは掛け布団をめくり上げ、さっと立ち上がる。それと同時に、シロと今井さんも立ち上がった。六畳間の対角線上で、それぞれ対峙する。
互いに沈黙したままだ。
やがて、上原さんが少しだけ眉をしかめながら、呟いた。
『……結界か』
忌々しそうに部屋の四方を見渡した。その視線の先には、部屋の柱や壁に貼られた、紙片がある。何かが墨で描かれているようだ。
「もう名は知れてる。お前を封じるのは容易い」
『そうかな?』
上原さんは余裕を感じさせる笑みを浮かべながら応じると、自分の一番近くの紙片に左手を伸ばした。今井さんが眉をしかめて何かを言いかけた瞬間、バチバチとまるで放電するような音が部屋に響き渡り、天井の照明が不規則に点滅した。
私は言葉を失いつつも、しっかりと上原さんから視線を離さなかった。
何が起こっているのか分からない。乗っ取られたという今井さんの言葉。
上原さんの左手が、紙片に触れている。
その手を中心に青白い雷のような光が、壁や柱を走っている。そしてその光は、上原さんの手から上腕まで伝い、袖口から衣服は焦げ、白い煙まで上がっていた。
「無理だ……やめろ!」
今井さんはまばゆい光から目を守るように手をかざしながら、心苦しげに叫んだ。
『……なるほど』
それに応じるかのように、上原さんは紙片から手を離し呟いた。自分の焼けただれた手を見ながらそれでも笑みを絶やさない。
点滅していた照明は元に戻り、辺りはしんと静まり返った。ただ、焦げたような嫌な臭いがあたりに充満しているだけだ。
『なかなかしっかりとした結界が張られているようだな。小娘にしては、良い仕事をしているじゃないか』
左手を何事もなく体側へ下ろすと、上原さんは今井さんに視線を移した。
「……まあ、書いたのは私じゃないからね。それより、諦めて大人しくして欲しいな。まだ、取引の余地はあるでしょ?」
取引という言葉に、私は思わず反応してしまった。
これから、今井さんが取引をする。一体、なぜ? 誰と?
その疑問の答えを、私は、分かっていた。
私を庇うようにして覆いかぶさった上原さんの体と、そして襲い掛かった黒い影。上原さんは、その影に、体を乗っ取られてしまった。
……人間になりたかった、黒い狐に。
「……私のせい?」
私を庇ったせいで、上原さんは体を乗っ取られてしまったのだ。私は動揺して、思わず足を踏み出した。上原さんの体から、アイツを追い出すには、どうすればいいんだろう。掴みかかって揺さぶれば、上原さんは正気に戻るのだろうか。
更にもう一歩足を踏み出したところで、今井さんに腕を掴まれた。
「違う。坂下さんのせいじゃないから。……あいつは最初から、男の体だけが目当てだった。……って、なんか変な表現だな」
こんな状況で自分につっこむ今井さんに少し笑ってしまった。同時に、体の力が抜けて、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまう。震えているのを誤魔化すように、抱え込んだ。もう、自分の常識では対応しきれない事態が起こっている。
と、何か白いものが視線に入ったので、顔を上げれば、シロが今井さんの前から私の前へ移動してきていた。
私を庇うようにして、立っている。私はいつでも守られる立場だった。それが何だか、やるせない。
『取引だと?』
「……そう。さっき、お前の望みは人への報復だと言ったはず。なら、その望みが叶えば、人間の体はいらない。そうでしょ?」
『……』
上原さんの体に入り込んだ黒い狐は、黙り込んで、何かを思案しているようだった。