16.
『……小娘、そう簡単に取引などという言葉を出していいのか?』
しばしの思案の後、彼は口の端に薄い笑みを浮かべながらそう言うと、今井さんの反応を確かめるように沈黙した。今井さんもすぐには答えない。狡猾そうな黒い狐の腹のうちを探っているかのようだ。
やがて、今井さんは小さく口を開けて、呟くように声を発した。
「コウリ」
呼ばれたその名に、上原さんの顔は忌々しそうに顔をゆがめた。そしてその次の瞬間、上原さんの体が今井さんの目の前に移動し、その首元を鷲づかみにする。
「今井さん!」
私は思わず叫んだけれど、足がすくんで全く動けなかった。咄嗟にシロを見れば、今井さんの首を掴んだ上原さん……コウリの腕を、同じく強く掴んでいた。爪が強く食い込み、一筋の赤い血がその腕を伝う。
けれど、コウリはそんなこと微塵も気にしていないかのように、ただ今井さんだけを見つめていた。
『怖い物知らずの小娘だ。……この俺が、お前の取引に応じると思うか』
「……」
今井さんの表情は、苦しさを無理やり我慢しているかのように、無表情だった。そして自分の手を、シロの手に重ね、何かを伝えるように視線を投げる。
シロはその視線を受けると、コウリの腕から手を離した。
「お前は、この取引に、応じる」
今井さんは囁くような声で、けれどはっきりと言った。
「条件は悪くないはず。人間のことは人間に任せるのが早い。お前が封じられていたというヤナギコウリなら、安行寺に預けられていた。コウリの出自を知るのはたやすい」
今井さんは、一体なんのことを言っているんだろう。私の知らない多くの情報を、今井さんは既に手に入れている。
そしてコウリは今井さんの顔をまじまじと見つめながら、何かを言うためか薄く口を開いて、けれども何も言わない。
『……ふん』
鼻で笑って、コウリは今井さんの首から手を離した。
開放された今井さんは、大きく息を吸ってふうと吐く。そうしている間に、コウリは一瞬で今井さんの背後の柱にあった紙片を毟り取った。
「……あ」
今井さんは呆気に取られたような表情で、コウリの手の中にある紙片を見る。
「取られた……」
ぽかんとしたような表情。私にはなんのことだかさっぱり分からない。
『こんなスキだらけの結界に封じられるか。前言撤回だ』
「しまった」
今井さんは困ったような顔をして、シロのほうを見た。シロは一拍置いて、ため息をつく。今井さんはそれを見て覚悟を決めたのか、何かを言おうと口を開きながらコウリを振り返った。……けれど、その後の言葉が出ない。
「……あ〜、と、とにかく」
待った、というように手を押し出して、反対の手で頭を抱えながら次の言葉を探しているようだった。
ちょっと、不安に感じる。どうしたんだろう。あの紙片はよほど大切なものだったんだろうか?
「とにかく、落ち着いて」
『まずはお前が落ち着け』
コウリの鋭い突っ込みが入る。緊張感がまるでない。
『……こいつと相打ちするのは御免だ』
コウリが指し示すのは、シロのことだった。シロは鋭い瞳でコウリを捉えている。
『応じよう』
コウリは言う。
『今は他に方法も思いつかん。人間の体に入ったところで、うつつのことは分からぬことばかりだ。……だが、いいのか。お前は、人間だろう? なぜこちらの世界に足を踏み込む? 戻れずとも良いのか』
ヒラリ、と手中の紙片を床に落として、コウリは言う。今井さんは、安堵と後悔が入り混じったような複雑な表情で、それでも笑みを見せた。
「……余計な心配しないでいいよ」
「コウリっていうのは、こう言う字だよ」
今井さんが書いて示す字は、「行李」という字だった。時代劇とかに出てくる、竹とか木の皮で作られた入れ物が、頭の中に浮かんだ。
「多分知っていると思うけど、昔使われてた荷物入れだね。旅行用だったのかな。大きさ的に確かに狐一匹くらい入れることは出来るかなあ……」
私は今井さんの言葉に頷くと、再び白河の説話集に目を戻した。
本の背表紙には、市立図書館のタグが貼られている。私が今読んでいる話は、『行李狐』というタイトルのついた、なんだか悲しいお話だった。とはいっても、お話自体はどこにでもあるようなストーリーなのかもしれない。けれど、お話に伝わる当事者の狐は、こうして今の時代まで生きている。
私が読み終わった本をテーブルの上に戻すと、ちょうどその時、廊下側のふすまが開いた。
「……読み終わったみたいだね。面白かった?」
呑気な笑顔を見せる上原さんの顔を見ると、私は何だか複雑な気分になる。
あの後、コウリの意識が一時的に眠り、本当の上原さんが目を覚ました。上原さんの体に例の狐が憑いていることを話すと、本人は悲しむよりも喜んだ。
なにせ目を覚ました後の最初の一声が、「あなたがシロ様ですか?!」である。なんと、コウリにとり憑かれた上原さんは、今まで見ることが出来なかったシロの姿を見ることが出来るようになったらしい。
上原さんは手に持っていたお盆から、お茶の入った茶碗をそれぞれの前に差し出すと、自分の場所に座った。
シロの前には以前と同じくお神酒が出されている。
「篠沢の遺体が、警察に回収されたみたいだね」
上原さんは熱いお茶をすすりながら、今朝のニュースを振り返った。
あの日から、数日が経過した。
私にはすっかりシロさまの姿は見えなくなり、これで本当に、ツキミ様やミズキ様とお別れなんだな、と実感する。
あっけなく、お別れの言葉もなしにいなくなってしまった二人。きっと、あの二人にとっては、私なんて、なんてことのない存在だったんだろう。
「死因は、鈍器による頭部への打撃。脳挫傷だね。死亡推定時刻は分からないみたいだけど、多分篠沢が行方不明になったその前後に殺されていたんだね。……山崎に」
証拠があるわけじゃない。だから、まだ警察も知らない事実。
けれども私たちはすでに、事件の当事者から多少の成り行きを聞いていた。
「山崎には一人の妹がいた。その妹が篠沢と知り合い、恋愛関係にあったのはすでに警察も知っている。そして、篠沢に多額のお金を半ば騙し取られたということもね。もちろんその妹にも過分の非があったから、表立って争いたくはなかったんだろうな。山崎は篠沢を呼び出し、なんとかお金を返すようにつめよる。篠沢には当然返す気はない。やがて口論がエスカレートして、発作的に山崎は篠沢を殺してしまう。……というのが、筋書きなのかな。予想だけど」
予想といったのは、誰もその現場を見た人がいないからだ。人だけじゃなく、妖怪さえも。
「山崎は篠沢を羅漢山に遺棄しようとした。……そこへ、コウリの登場、というわけだ」
コウリは、言った。
俺に手を貸すのなら、お前の願いをかなえよう。
そして、山崎の願いは……。
「山崎の願いは、篠沢を生き返らせること。発作的な殺人には後悔が付き物だからね。そして、山崎はコウリの指示通り、せっせと宝珠を集めた」
それが、コウリが人間になるための儀式だとは知らずに。