17.
――むかしむかし、あるところに、祥姫という美しく心優しい姫がいました。祥姫は、当時の白河藩主の腹違いの兄妹でした。当時のことですから、藩主の父親には正室の他にも何人かの側室がいましたし、多くの兄妹のうちの一人でした。
祥姫には、生まれたときから婚約者がいました。婚約者とは、その当時の仙台藩藩主の、これまた多くいる息子たちのうちの一人でした。
ある日、祥姫は婚約者のもとに嫁ぐために、旅に出ました。白河から仙台というと二百キロメートルほどの大変長い道のりです。当時は徒歩の旅路で、だいたい一週間はかかる距離でした。
祥姫が白河を出て、二日ほど進んだ日のことでした。小鳥のさえずる山道を進んでいると、祥姫を乗せたかごが急に止まりました。祥姫はどうしたのかと、かごから顔を出しました。
すると、一匹の黒い狐が、道をふさいでいるのでした。
一人の近衛兵が長い槍で狐を脅しても、決して離れようとしません。祥姫は、きっと何かの事情があるのだろうと思い、かごの戸を開きました。すると狐は、するりと中へ乗り込みます。
この狐はきっと、自分と同じく、どこか遠くへ行かなければならないのでしょう。祥姫はそう思い、とがめる女官の言葉をさえぎり、出発を指示しました。
その日の夜、祥姫は黒い狐の夢を見ました。
夢の中で、狐は言います。
私は尊い人のお使いで、姫君と同じく仙台まで行かねばなりません。しかし獣の私にとっては、人間が感じるよりももっと大変な道のりです。お願いですから、どうか姫君と同行させてください。そのかわり、仙台まであなたの身をお守りしましょう。
祥姫は翌日から、身の回りのものを入れていた柳行李を空け、その中に綿を敷き、狐を入れて一緒に旅をしました。
祥姫はいつでも膝の上に柳行李を置き、時には狐に優しく話しかけます。狐もまるで祥姫の言葉が分かるかのようでした。
しかし、祥姫の旅は、思いがけない場所で途切れてしまったのです。それは旅に出てから四日目のことでした。薄暗い森の中、ざわざわと木々が不吉な音を立てています。突然、かごの外から悲鳴があがりました。女官や近衛兵たちの死に際の叫び声でした。
祥姫のかごは突然横なぎに倒され、祥姫は慌てて身を起こします。祥姫が見たのは、まるで地獄絵図のような光景でした。
山賊が襲撃してきたのです。突然のことになすすべもなく、一人また一人と地に倒れ、辺りは血に染まりました。そしてついには、祥姫にも山賊の刃が襲いました。祥姫はここまでの命と悟ると、とっさに身をかがめ、傍らに置いてあった柳行李に抱きつきました。せめて、この狐だけは助けよう。心やさしい祥姫は、そう考えたのでした。しかし、行李の中の狐は外に出ようと暴れます。祥姫を守ると誓った、その役割を果たしたいという意思があるかのようでした。
やがて辺りは静まりかえり、柳行李を押さえつける重みもふいになくなりました。狐はそっと顔を出します。山賊はすでにいなくなっています。そして狐は、美しかった祥姫の無残な姿を見たのでした。狐は、しばらく祥姫の周りを離れませんでしたが、やがて姿を消しました。
祥姫の葬儀は、白河城でしめやかに執り行われました。その後、いつしか、悲しむ人々の目に、黒い狐の姿が目撃されるようになりました。ある者は、その狐が夢枕に立ち、こう言うのを聞いたといいます。
私は祥姫をお守りするとお約束したのにも関わらず、そのお約束を果たすことが出来ませんでした。せめて祥姫を手に掛けた悪しき山賊たちに報復を与えることといたしましょう。そのためにもまずは、わが身を人と変え、あの山賊たちを探し出そうと思うのです。
そうしてこの白河の地に、人となるすべを探してたびたび黒い狐が姿を現すようになったと言われています。
私と今井さんと上原さんとシロは翌日の夕方、最初に私たちが出会った南湖神社の中の稲荷神社に訪れていた。
私はバッグの中から、石で出来た鍵を取り出す。ぽっかりと空いた狛狐の左足の下に、調度良い角度でそっと置いてみる。特に変化はなかったが、手を離しても鍵は狛狐にしっかりと固定されていたから、これで大丈夫だろう。また、左の狛狐の右手の下にも、ちゃんと宝珠が戻っていた。未だテレビや雑誌も気がついていないらしく、世間の話題には上っていない。
「もう二度とツキミ様やミズキ様に会えないと思うと、少し寂しいですね」
私は今井さんを振り返って、言った。
今井さんは少し首をかしげてから、微笑む。
「見えなくても、きっと傍にいるよ。坂下さんの気持ちは伝わってる」
励まされるように言われて、私も笑顔を作った。見えないものの存在を感じるのは難しい。けれど、あの二人のおキツネ様が実際に存在していることを、私は知っている。だから、傍にいるという今井さんの言葉も、嘘じゃないんだろう。
「さて、宝珠も鍵も無事返したし、帰ろうか。私もそろそろ東京に帰らないと」
今井さんはそう言って、踵を返した。シロが後をついていく。
「あ、宜しくお願いします」
上原さんもそう言って、今井さんに続いた。上原さんは用事があるからということで、今井さんの車に便乗するらしい。ガソリン代と高速道路代を折半できるから、今井さんは喜んでいた。
私は、二人が背を向けてからも、しばらく二匹の狛狐たちをながめていた。目を釣りあがらせて、私を見返してくる狐たち。まるで、ツキミ様とミズキ様のようだ。
「短い間でしたけど、ありがとうございました」
私はそう言って、ぺこりとお辞儀をした。
狐に憑かれると、良くないことが起こるって今井さんに言われたけど、あの二人はむしろ私を守ってくれてたんじゃないかと思う。
何よりも、今井さんや上原さんとめぐり合わせてくれた。
だから、そのお礼だった。
……そのとき、頭を下げたその視線の先を、白い布がさえぎった。
布の先からは、白い足袋と草履を履いた足が、二人分。
「あ」
私は、頭を下げたまま、驚いて声をあげた。
『今回はとんだ災難だったな』
ミズキ様の声だった。私は顔を上げたい衝動にかられたが、まるで金縛りにあったかのように、体は動かなかった。
『これからも息災であれ』
ツキミ様の声も聞こえた。
私は目をぎゅっと瞑ると、金縛りに抗うように渾身の力を振り絞って上体を元に戻す。そして目をあけた。
一瞬、微笑むツキミ様とミズキ様の表情が見えた……気がした。
けれども目の前には、先ほどと変わらぬように二匹の狛狐が並んでいるだけだ。
次の瞬間、ビュウッと一際強い風が吹き、木の葉があたりに乱れ飛んだ。
目にゴミが入らぬよう、目を細める。風は遥か上空に駆け上って、そして消失した。はらはらと木の葉が舞い落ちてくる。これが幕引きだとでも、言うかのように。
今井さんの車が、旅館の正面玄関に滑り込み、私はついにお別れのときが来たのを実感した。
私は車から降りると、運転席の方の隣に立って、見送る姿勢をとった。
「じゃ、これで」
今井さんは開け放した車の窓から、手を一振りする。
「東京に戻ったら、連絡してね」
上原さんはそう言って、今井さんの向こう側から身を乗り出し、にっこり微笑んだ。
前と変わらない上原さんの笑顔。私は複雑な思いで、手を振った。
私が車に乗っている間、狐の姿で隣に伏せていた後部座席のシロも、立ち上がってこちらを見ている。シロに向かって微笑めば、尻尾を一振りして視線を逸らした。狐のシロは相変わらず可愛い。あの尻尾に、一度でいいから触れてみたかった。
「また東京でね。……バイバイ!」
今井さんはそう言うと、車を発進させた。
私は車の姿が見えなくなるまで見送ってから、そうしてから、しゃがみ込んだ。堪えていた涙があふれ出て、止まらなかった。
東京に戻ればきっと、また会える。なのに、なんで泣けてくるのかは、分からなかった。