5.
私は上原さんが差し出した半紙を受け取ると、まだ乾かぬ墨で描かれた宝珠の絵を眺めた。先のとがった丸い形は、有名なロールプレイング・ゲームの敵キャラに似ている。
私がそれを眺めていると、上原さんは狛狐についての説明をしてくれた。
「稲荷神社の狛狐はね、狛犬と違って色んな付随物があるんだよ。口に咥えていたり、足元に持っていたりね」
そういえば、私が壊してしまったこの鍵も、狐の足元に据えられていたものだ。
もう一匹は、何も持っていなかったけれど。確かに片足を上げているだけの姿勢は何となく不自然で、その下に何かがあったと考えるとしっくりくる。
宝珠が無くなっているという話からすると、恐らくその狐の足元には、この半紙に書かれているような宝珠があったのだろう。
「狛狐には神社によってバリエーションがあってね。この宝珠と君が持っている鍵の組み合わせが一番多いかな。ちょっと見せてね」
上原さんはそういうと、私の手前に置いていた石の鍵を手にした。
別に私のものじゃないんだから、そんなふうに断る必要はないのだけど。
「なんでこういう四角い渦になっているのかは知らないけど、何か不思議な形だよね。僕は鍵の歴史には詳しくないけど、こんな形の鍵、今までに存在したのかな?」
上原さんは独り言のようにそんな疑問を口にした後、鍵を元の位置に戻した。
「狛狐に付随されるこういうアイテムは、他にも沢山あって、例えば巻物とか稲とかが多いね。持ち方も様々で、手で押さえるようにして持っていたり、尻尾の先にあったり、頭の上にあったり、口に咥えていたり。きっと職人さんたちの手で色んな組み合わせが作られたんだろうけれど、面白いよね」
そんなふうに、狛狐にバリエーションがあるだなんて、初めて知った。
正直、私はそんなに沢山の狛狐を見たことがない。
もちろん身の回りには稲荷神社は沢山あるのだろうけど、神社そのものに興味を抱いたことは一度も無かった。
考えてみれば、そんな私がこんなことに巻き込まれているなんて、何だか不思議な感じだ。
「……で、このアイテムにもそれぞれ意味があって、諸説あるけど、宝珠は稲荷様の偉大な霊力の象徴だと言われてる。仏教では如意宝珠と言って、『全ての望みを叶えさせ、よろずの宝を自在にする』という凄い玉なんだけど、まあ、近いものがあるかな。そして、鍵はその宝珠の霊力を引き出す鍵であるとか、あるいは、神様の霊力にあやかりたいという、願いの象徴だとか言われてるけど、これも諸説あるから断言は出来ないな。……この辺は正直、ご本人方にお聞きしたいところだけどねえ」
上原さんはそう言って、視線をツキミ様やシロの方へ送った。きっと上原さんにとっては、ただの空席に見えるのだろうけれど。でも、確かに彼らはそこに鎮座しているのだ。
『ふん、狛狐は所詮人の造り物じゃないか。神に奉納している以上何かしらの力は宿るけど、人の造ったものの意味など、後でいくらでも付けられるだろう?』
ツキミ様に一蹴されて、上原さんは少し困ったような笑みを浮かべた。
「……まあ、そう言われてしまうと元も子もないんですけどね。確かに神社固有のオリジナルもありますし。でも宝珠と鍵に関して言えば、やっぱり特別なものなんでしょう?」
『さて、どうだろうね。……私たちは元より神の恩恵を受けている。今更そんな物に執着はしないけどね。物に意味をつけて欲しがるのは、下等な生き物のみであろう。人間のような、ね』
「いや、これは手厳しい」
上原さんは苦笑して、話を元に戻した。
本当に厳しいと思っているかどうかは、怪しまれる。
実は私もいまいち、ツキミ様たちが神様のお使いだという実感はわかない。シロになんて、様を付けていないし。
「と、ツキミ様からは厳しいご発言を頂いたけれど、とにかく宝珠にはそういう意味があるからね。そんな宝珠だけが狛狐の元から次々と盗まれているなんて、なかなか興味深い話じゃないか。……なんて、罰当たりな発言だけど」
「それで、上原さんはどうしたんですか?」
話の道筋を逸らしてしまったのは自分の責任なので、そろそろ元に戻さないと。
「ああそう、で、一応ね。器物損壊じゃない。金銭的な価値があるのかどうかは別として、一応警察に届け出たんですよ。……まあ、ほとんど相手にされないだろうと思ってましたが。犯人なんて見つかるわけもないし。ところがね、なんとそういう被害届けが、すでに幾つかあったらしいんですよ」
何だか、上原さんの語り口から段々、話が事件性を帯びてきたような気がする。
最初は何のことやらさっぱり分からなかったけれど、言われてみると、とても不思議な事件のような気がしてきた。
「何かの悪戯にしては、おかしいな、と思ったんですけどね。ただ壊されているだけならともかく、宝珠だけが無くなっているんだから。……それで、僕も自分なりに調べてみようと思って。いくつかの稲荷神社を回っているときに、今井さんとシロ様にお会いしまして。ほんの数日前のことでしたよね」
ようやく、上原さんと今井さんの接点が分かった。以前からの知り合いではないだろうな、とは思っていたけれど。
それにしてもシロを様付けで呼ぶ上原さんに、少し違和感を覚えて心の中で笑ってしまった。そもそもシロという名前が悪いんだと思う。
まるでペットのような名前だし、様を付けるような語感じゃあない。
「いやあ、今井さんたちに会ったときは吃驚仰天ですよ。……実は僕は昔から、少しだけ霊感のようなものがありまして。たまにふとした瞬間に、何かこの世のものじゃない存在を感じるときはあったんですけど。まさか喋る白い狐を引き連れた人間がいるなんて、思いも寄らないでしょう? しかも今井さんは、普通の女の子だ」
「……女の子っていう年じゃあ、ないですけどねえ」
苦笑交じりに、久しぶりに今井さんが口を挟んだ。
元々無口な人なのか、それとも上原さんが話し過ぎなのか、あまり目立つタイプの人ではないらしい。
「こりゃもう稲荷様の化身か、なんて考えてしまいましたよ」
上原さんがそんなふうに言えば、今井さんは困ったように頭に手をやった。
「それは稲荷様に失礼ですよ。ていうか、シロには笑われるだろうな」
今井さんの言葉に反応してか、シロも実際、彼女を馬鹿にするかのように鼻で笑った。今井さんは、少しムッとしたような表情を作る。
「まあ、そんなわけで今井さんと少しお話をしまして。色々お互いのことを話しつつ、この事件を調べようということになったわけです」
上原さんはそう言って、話を締めくくった。
後は今井さんに任せる、という感じで、視線を送っている。それを受けた今井さんは、やれやれという感じにため息をつくと、口を開いた。
「私はさっき坂下さんにも話したように、卒論のために偶々こちらに来ていたわけで。本業はもちろん学生だからね。でもこの厄介な……おキツネ様を連れているせいで、自然と稲荷神社には足が向くわけ。というのも彼らには縄張りがあるとかで、色々挨拶回りをしないと面倒なことにもなりかねないとか? 私も面倒は御免だからさ、それに付き合っていたわけ」
今井さんはそういうふうに話を始めた。
積極的に色んなことを楽しそうに話す上原さんとは、対照的だった。けれど、上原さんとは知っていることの質が違う。かなり興味深い話が聞けそうだ。
「白河周辺の稲荷神社の宝珠が消えているっていう話を聞いたのは、磐城の総代の元から帰ってきたシロの口からだね」
「……イワキの、ソウダイって?」
確か、先ほどもシロの口から聞いた言葉だ。
自分には、その言葉に当てはまる漢字すら思い浮かばない。
私がそう言えば、今井さんは上原さんの前にあった文箱を引き寄せて、筆に墨をつけた。上原さんが、新しい半紙を出して、下敷きと共に今井さんに差し出す。
今井さんは適当に半紙に字を書いた。書道をやっていた様子は微塵もない、割とへたくそな字面だった。
「えっと、確かこう言う字だったよね。ちょっと昔の話で難しいんだけど、昔福島県は磐城国と岩代国に分かれていたわけ。ここ白河は、磐城国の白河郡。……稲荷様の狐たちは神社一つ一つに派遣されているわけじゃなくて、地域ごとに担当が決まっているらしい。考えて見れば人間の神職と同じだよね。で、国ごとにその地域の狐をまとめる代表が居るわけ。福島県には磐城の総代と、岩代の総代が二人いることになるね。私たちの世界では廃藩置県とかで県名が変わってきたけど、彼らの世界では未だ旧国群での地域分けがされているらしい」
上原さんもそうだけど、やっぱり今井さんも物知りだ。私にはちんぷんかんぷんで、何となくしか理解出来ない。
旧国名なんて言われても、ほとんど知らない。
「ツキミ様ともう一人の方は、二人で白河を担当してるんですよね」
『そうだね』
今井さんの確認に、ツキミ様は簡素に応える。やや呆れ気味の表情を浮かべていると思うのは、私の気のせいだろうか。
「えっと、まあそういうわけで、シロはここらを仕切ってる総代に挨拶に行った、と。そこで白河での珍事を聞いたんだろうね。更に面倒な頼みごとまで引き受けて来て。……あんた、絶対暇だと思われてるよね。っていうか事実そうなんだけど、私は全然暇じゃないんだけど」
今井さんが不服そうな視線をシロに送れば、シロは少しだけ肩をすくめた。
まるで人間のようなしぐさだと思った。
ともかくこうして、私は今井さんと上原さんの事情を一通り知ることが出来た。