7.
ヒグラシの鳴き声が小さく聞こえる。
今はまだ八月の中旬。
……ヒグラシは、初秋に鳴くのじゃなかったっけ?
私はまだ覚めやらぬ頭の中で、そんなことをぼんやりと考えたまま、うっすらと目を開いた。
頭上には、濃い茶色の木目が規則正しく並んでいる。所々に、節目が入る。
体は少し、汗ばんでいた。
お腹の上には、いつの間にやら掛けられた、タオルケット。向こうの方では、扇風機が首を振っている。
『奈津代さん、何をだらしなく寝ているんだい?』
しわがれた声が部屋の奥の方で聞こえた。
『そろそろ、夕飯の支度をする時間だろう。明彦も、なんでこんなだらしない嫁を貰ったんだろう。嫁が来れば私の仕事も大分ラクになると思ったのに、何の役にもたちゃしない』
敵意を含んだ、棘のある言葉。
ずっと昔、私の母親に掛けられたもの。……けれどもなぜか、それが今、私の耳に響く。
私はお母さんじゃないのに、私をそんな目で見ないで。小さい頃は、あんなに可愛がってくれたのに……。
「……里緒、そろそろ起ぎて夕飯食べな?」
美千代おばさんに声を掛けられて、私はハッと目を覚ました。
日はとうの昔に落ち、窓の外はすっかり暗くなっていた。
夕方、旅館の手伝いを終えた後、縁側で居眠りをしてしまったらしい。身を起こして汗ばんだ顔に手をやれば、木目がくっきりと刻まれている。
「ご、ごめんなさい」
「あはは。かまねえって。自分の仕事は終わってるんだし、好きに過ごせばいいさ。……ああ、したら、私はまだ仕事あるがら」
そう言った後、おばさんは小走りに、再び旅館の方へ戻っていく。
壁に掛けられた時計を見れば、20時になろうとしている。いつもならもう食べ終わっている頃だ。仕事の合間に様子を見に来たおばさんが、手の付けられていない食事を見て、起こしに来てくれたのだろう。
私は立ち上がると、扇風機を消してから部屋を出た。
キッチンに向かえば、卓の上に一人分の食事が並べられている。
……変な時間に寝てしまったからだろうか。それとも、暑さで寝苦しかったからか。
嫌な夢を見てしまった。
ここに来ている間は、忘れていられると思ったのに……。
私は伏せられた茶碗と御椀に、ご飯と味噌汁をよそうと、古い小さなテレビの電源を入れた。そうしてから、椅子に腰掛ける。
テレビからは、緊張感のあるアナウンサーの声が響いていた。
目を向ければ、お年寄りを狙った詐欺被害を取材した映像が流れている。私はさっき見た夢のことを思い出して、思わずリモコンを探した。
他の番組に変えたい。
出来れば、おばあちゃんのことは思い出したくない。
けれど、卓の上にはリモコンが見当たらなかった。私は仕方なく椅子から立ち上がり、直接テレビのボタンでチャンネルを変えることにする。
ニュースの話題が変わったのは、そんな時だ。
テレビの画面に、朱色の鳥居が大きく映し出された。
私は驚いて、文字通り跳ね上がる。よろめくようにして二、三歩、後退した。
不思議な体験をしたあの日から、五日が経っていた。
その間の生活には何の変化もなく、今井さんからの連絡もなく、あるいは狐の呪いに苦しまされることもなかった。
あの体験の鮮明さも、やや失われかけていた頃だったのに。
……画面の隅には、『男性の変死体発見、破壊された狐の謎』と字幕スーパーが書かれていた。
人間の情報網も、馬鹿には出来ないと言った今井さんの顔が思い浮かぶ。
私は食事も忘れて、画面を凝視した。
福島県、白河市。羅漢山の山中で男性の遺体が発見された。
身元は不明。遺体には外傷はなく、死因も今のところ不明だ。遺体の状態から、死後数日が経過していると言う。
遺体は今日の昼ごろ、近くの農民が発見した。
着衣のまま、山の緩やかな斜面にうつ伏せに倒れていたという。
そして不思議なことに、遺体の周りには丸い石が沢山落ちていた。
……この石こそ、稲荷神社の狐から消えていた、宝珠だったのだ。
私はしばし迷った後、居間に置いてある電話に向かった。
今井さんに教えられた、彼女の携帯電話にかけてみる。しかし、何度鳴らしても今井さんが電話に出ることは無かった。
次に上原さんに電話をかけてみたが、彼も電話に出ない。
まさか、男性の遺体というのは……。
私はその最悪の想像を、慌てて打ち消した。
けれど、可能性が全く無いとは言えないじゃないか。
私は物凄く不安になって、居ても立ってもいられなくなってしまった。
まさか、人が死ぬなんて、考えてもみなかった。
狐の石像から宝珠が消えて、それを探すことぐらい、全然深刻なこととは思っていなかった。
私は部屋に戻り、財布の入ったバッグを掴み取ると、玄関へ足早に向かった。自分に何が出来るのかはわからないけど、じっとしていることなんて出来なかった。
まずは、上原さんの家に行ってみよう。
あそこなら、自転車で三十分も走ればたどり着く。
私は靴を履き終えると、ガラリと玄関の引き戸を開けた。
『……待て』
「ひえっ!」
いきなり後ろから肩を掴まれて、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
しかも、肩を掴み後ろに引き寄せる力はかなり強くて、私は後ろにひっくり返りそうになる。
バランスを崩しながら、慌てて腕を動かして何か掴むものを探した。
その腕を、ぐいっと掴まれる。
背中が壁にぶつかって、何とか倒れることだけは免れた。視線の隅に、白い壁。ほっとして顔を上げてから、私は硬直した。
そうだ、玄関を出ようとする私の背後に、壁なんてあるわけが無い。ぶつかったのは、白い衣に身を包んだ誰かの体。
頭上には、白く長い髪が垂れている。
彼の顔に、見覚えはあった。
ツキミ様と一緒にいた、男の方の狐。
『今動くのは止めろ。……夜は何かと騒がしい』
「さわ……がしい?」
『不穏なものに遭遇するということだ。動くなら、明日の朝にしろ』
言って、彼は私の腕を離した。
掴まれた際についた、爪の痕が赤くなっている。私はそれをさすりながら、ぽかんと彼を見上げた。
なぜ、彼が現れるのだろう。そして、危ないからと言って、私を引き止める理由はなんだろう。
……彼は、私を心配しているのだろうか。
『ツキミ様は……?』
本当に疑問に思ったことは口に出せず、私はそんなことを聞いていた。これではまるで、彼が現れたことに不満があるかのようだ。
事実、彼はムッとした様子で、私を見下ろし言った。
『あいつは遠出中だ。私では不足か』
慌てて、頭を横に振った。
『……ともかく、私たちにも分からぬことが起きている。お前も今日のところは大人しくしているのだな』
彼はブスッとしたまま言い捨てると、風と共に姿を消してしまった。