8.


 翌朝私は、一日だけお休みを貰いたいと、叔母さんに頼み込んだ。
 叔母さんは一瞬不思議そうな顔をしたけれど、快諾してくれた。
 それで私は、こちらで友達が出来たことを話した。もちろん、特殊な経緯で出会ったことは言えない。でも、叔母さんはとても喜んでくれて、笑顔で私を送り出してくれた。
 叔母さんは、本当にいい人だと思う。とても優しくて、思いやりがある。
 きっと、私を福島に呼んでくれたのも手伝いが欲しいからじゃなくて、彼女の気遣いだったんだろう。
 まあ、旅館が忙しいのは紛れも無い事実だけれども。
 私はショルダーバッグの中に入っている石の鍵を、もう一度自分の手で確認した後、沿道に停まっていた車に駆け寄った。


『あ、坂下さん? お早う』
 今朝、私は上原さんからの電話で起こされた。
 昨日はなかなか寝付けなくて、ほんの数時間しか眠れなかったというのに、上原さんの電話で私の頭はすぐにはっきりとした。
「あ、お、お早うございます!」
『早くにごめんね、起こしちゃったよね』
 言われて掛け時計を見れば、時間は六時を過ぎたところだった。
 私は布団から起き出して、縁側の方へ移動する。空は明るく、日が輝いていた。今日は、いい天気のようだ。
「いえ、もう起きる時間だったので。……あの、私昨日上原さんに電話したんですけど、つながらなくて……」
『うん、ごめん。ちょっとバタバタしてて、着信に気がつかなかったんだ。……それで、坂下さんももう知ってると思うけど、宝珠絡みで人が死んだ』
「……私っ……もしかしたら上原さんが、って思ってすごく心配したんです。良かった、上原さんじゃなくて……」
『ああ、あはは。そうかそうか。ごめんね、ありがとう。……坂下さんはまだ今朝のニュースは見てないんだよね? あのね、死んだ男の身元が分かったんだ。名前は山崎良孝、三十二歳。白河市内の設計事務所に勤めていたそうだ。死因は脳卒中』
「……脳卒中、ですか?」
『そう。脳の血管が詰まったり、あるいは出血したり……どうもそれが多発していたらしくて、まあ、診断名としてはそれをまとめて脳卒中と』
「それって、若い人でもなる病気なんですか? 何か、年取った人がなるイメージだから……」
『いやあ、どうなんだろうね? 僕は医学については詳しくないから。まあ、そういうことで殺人の可能性は大分低くなったんだけど、僕たちにとって肝心なところは何にも分かってない。……ああ、それとね。昨日の夜から今井さんと連絡が取れなくて、かなり心配してるんだ。それで今日、今井さんがいるって言う実習林の方に訪ねてみようかと思うんだけどね』
「えっ、そうなんですか……」
 私も行きたい。そう言いたいけれど、迷惑になるかもしれない。仕事もあるし、私が行っても、何の役にも立たないのに……。
 けれど上原さんは、戸惑う私に何のためらいもなく、言った。
『坂下さんも、来てくれる?』
「い、行きます」
 即答してしまった。まだ、仕事を休めるか分からなかったというのに。
 でも、嬉しかった。
 疎まれるのではなく、必要とされることが。悪意ではなく、好意を向けられることが。相手にとっては何気ないことでも、今の私には、本当に嬉しかった……。


 私は助手席の扉を開けると、その中に乗り込んだ。
 車の中は、まだ新車の匂いがする。ちなみに車のカラーはブルー。マークはライオン。私でも知っている有名な車だった。
 隣には、先ほどまで助手席に置かれていたストライプのシャツを、後部座席に放り投げる上原さんがいる。
 上原さんは、Tシャツにチノパンという、ラフな格好をしていた。
「……今日は、着物じゃないんですね。神社のお仕事はお休みですか?」
 言えば、上原さんは声を出して笑った。車を発進させてしばし走ってから、上原さんは口の端に笑みを浮かべたまま、応える。
「いや、実はあの神官装束は、僕の趣味なんだ」
「趣味、ですか?」
 私の頭の中には一瞬、コスプレという言葉が浮かんだ。
「そう、趣味。僕の家の敷地には神社があるけど、僕は神職ではないからね。仕事に使っているわけじゃくて、ただの趣味」
「……はあ」
 どういう反応をしていいのか分からなかった。マンガっぽく表現するなら、目は点になっていることだろう。
「あ、引いてる引いてる」
 上原さんはちらりとこちらを見て、ふざけて言った。
 私は慌てて頭を横に振る。
「……え、や、そういうわけじゃ。でも、趣味って……ああいうの、普通に売ってるものなんですか?」
「いやあ、そりゃ売ってるよ。高いけどね。白い上の着物は白小袖と言って、袴はさしぬきという名前だね。指を貫くって書く。昨日は省略してたけど、本当は狩衣って言う上着を着る」
「かりぎぬ……ですか」
「そう。平安時代に、狩りをするときに来ていた着物だね。絵巻物の男の人を想像して貰うといいかなあ。更にちゃんとしたのになると、袍っていうかなり面倒くさい上着もあるけどね」
 そう言って、上原さんは神官装束について色々教えてくれた。
 着物の色の名前だとか、階級による色の分け方だとか。ちなみに上原さんが来ていた袴は浅葱という色で、一番低い階級の神職が身につける袴の色らしい。ただの水色も、浅葱という名前がつくと何だかお洒落だ。
「……詳しいんですね」
「そりゃあ、調べたもの。僕の着ているのは綿とか化繊だから安いけど、それでも数万はする。絹になるとウン十万とかウン百万とか……」
「うわ、高……。でも、振袖とかもそのくらいしますもんね……」
「そうそう……と、ここを右折かな……?」
 上原さんは車のスピードを落とすと、体を前に乗り出して、目の前の標識を見上げた。無駄話をしている間に、風景はいつの間にか変わっている。市街地から、木に挟まれた山間へ。
 しばらく進むと道の傍らに、大学の名前と、那須実習林と書かれた立て看板が見つかった。
「那須実習林……」
「ここは西郷村だね。白河市から西に来たところ。ほんのちょっと走っただけで、本当に山の中に入るよねえ。いやあ、ここはいいところだ。……また機会を改めて、遊びに来たいね」
 そんなふうに言った上原さんの言葉に、緊張感は全くなかった。けれどその声質は、とても硬い。気になって顔を覗き見れば、表情も真剣だったから、彼はきっとすごく緊張しているんだろう。
 そんな緊張、すぐにでも無くなってしまえばいい。
 心配顔で訪ねた私たちが拍子抜けするほど、あっさりと今井さんに会えればいいのに……。
「実は坂下さんを迎えに来る前、施設に直接電話してみたんだ。……今日は今井さん、顔を見せていないらしい。昨日の昼に早退したのを最後に連絡は取れないし、今宿泊所にもいない。研究室の人は、今日中に連絡取れなければ警察に相談するって」
「……そう、なんですか」
 じゃあ、もしかしたら、今井さんに会えない可能性は高い。
 私は一気に不安になった心を何とか落ち着かせて、前方に現れた実習林の施設を見上げた。



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