16.

 ライブハウスは熱気に包まれ、重低音はもはや地響きと感じるほどだ。
 この狭い空間にこれだけの人が詰め込まれているのだから、酸素はかなり薄くなっているのではないだろうか。
 そう思うと本当に息が苦しくなるようで、美紀は小さくため息をついた。
 小さな箱のようなライブハウス。その一番後ろ。
 三月先輩は気を利かせて後ろの方にしてくれたのだろう。それでも美紀は、 ライブの中盤当りですでに、ややうんざりとしていた。
 演奏中の曲が終わったようだ。一際大きな歓声が上がる。
 先輩の友人だというボーカルの彼は、先輩ほどではないがそれなりのルックスをしていて、女のファンが多いようだった。
 彼女らのタフさをやや尊敬の眼差しで見ていると、隣に立っていた三月先輩が、美紀の耳元に口を近づけてきた。
「美紀ちゃん。もう、出よう」
「え? で、でも」
 先輩の吐息まで一緒に感じて、美紀は紅潮し戸惑う。
「感想を言えるくらいには充分聴いたし、もういいよ。美紀ちゃん、辛そうだし」
「そ、そんなことはないです!」
「……けれど、時間が勿体無いでしょ? せっかく一緒にいるんだし。この前の映画みたいに、 何にも話さないままじゃつまらないからね」
 美紀は赤面したまま返す言葉を失っていると、先輩は少し笑みを浮かべて、美紀の手を取った。 そしてそのまま、やや強引に外に連れ出された。

「せ、先輩、ちょ、ちょっと待ってください〜」
 狭い階段を何とか上りきって、二人は外に出た。
 美紀は足をもつれさせながらも、頭の中でははっきりと先輩の手の感触やその体温を感じていた。
 この感じを絶対に忘れまいと心に決める。
「ああ、ごめんね」
 美紀の困りきった声にようやく先輩は手を放した。美紀は残念に思う反面やや気を緩ませる。
 ……それがいけなかったらしい。
 床のコードに足をつまづかせて、美紀は大きく腕を振り上げながら前のめりに倒れ込んだ。
「うきゃ……」
 思わず猿のような声を上げてしまった。
 そして、必死に何か掴まるものを探す。
  もちろん、美紀の目の前にあって掴まるのに調度良いものとなると、一つ、いや、 一人しかいなかった。
 駄目だ、と思ったときにはもう遅い。
 美紀は三月先輩にぶつかるように倒れ込み、そしてその腕にしがみついてしまった。
「おっと、……大丈夫?」
 美紀の体重くらいで一緒に倒れ込んでしまうほどの、ひ弱な男ではなかったらしい。
 三月先輩は美紀の身体を支えるように腕を回してくれる。
「あ、ありがとうござい……はっ、あああ、ああの…」
 これではまるで抱き着いているみたいだ。
 美紀は慌てて、三月先輩の身体から離れた。
 三月先輩をやや突き放すようにして離れた美紀は哀れ、その反動で更にバランスを崩すことになる。
「危ないっ」
 三月先輩が、その腕を掴んで支えてくれた。
 色んな意味で鼓動が早くなったままで、美紀は今度こそ頭の中が真っ白になった。
 恥ずかしがればいいのやら、嬉しがればいいのやら……
 表情を強張らせたまま固まっていると、しばしして三月先輩が吹き出すようにして笑った。
「……まったく、美紀ちゃんって本当に面白いなあ」
 それで美紀も、ようやく情けない表情をして笑ったのであった。
 
 時間は七時半過ぎを示していた。
 ファーストフード店で軽い食事をとることにした二人は、それぞれハンバーガーのセットを買って向かい合っている。
 美紀は壁の時計をちらちら見つつ、今日将行に言われたことを思い出していた。
『いいか、朝帰りするのはいいけど、お母さんが帰って来る前には戻ってこいよな。……ああ、 しっかしお前もついに! 朝帰りかあ……いいよなあ、恋多き乙女はよ』
 もちろん美紀が赤面して怒ったことは言うまでもない。思い切り慌てた様子だったのは、三月先輩にはもちろん内緒である。
 けれど、そんなこと本当にあるのかなあ、と美紀は思う。
 期待がないわけではない。
 久美子との会話では、わざとボケて分からないように演じているが、美紀にそういう知識がないわけではなかった。
 けれど、圧倒的に恥ずかしさが勝っている。それにそういう経験をするのにはまだ早いような気がした。
「どうしたの? 美紀ちゃん。難しい顔をして……」
「え!? 何でもないですよ!?」
 心の中を見透かされたようで、美紀は慌てて首を振る。
 もちろん三月先輩にはそんな美紀の心情が分かるはずもない。
「そう?」
 それでも三月先輩のこの特有の笑みは、何だか全てを知っているかのようで、美紀は意味もなくドキドキするのであった。

 

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