21.

 朝の光が心地よく思えたのは、本当に久しぶりだ。 カーテンの隙間から漏れる清々しい陽光によって、美紀は自然と目が覚めた。
 上半身を起こしてしばし、ぼーっと佇む。
 ……今日だ。
 今日は、先輩と一緒に下校する日。
 無意識のうちに、口元に笑みが浮かんでいた。
「……大丈夫か、お前」
「ほえ?」
 いつの間にかドアの隙間から将行が覗き込んでおり、 彼は何か異常なものを見るかのように顔を歪ませている。
 美紀がハッとして表情を引き締めると、将行は大げさにため息をつき、 大きく頭を振ると肩をすくませてドアを閉めた。
 
 美紀は心躍らせつつ登校すると、教室に飛び込んで久美子の姿を見つけた。
「く〜み〜こ! おはよ!」
 久美子も先ほど来たばかりのようで、カバンの中から教科書を出しているところだった。
 振り返った久美子は、美紀の満面の笑みを目の当たりにして、大きくため息をつく。
「おはよう。……あんたは朝からご機嫌だねえ」
「まあね〜」
「あ、むかつく」
 言いながら、久美子はにやにやと笑う美紀の頬を両方からつまんだ。それを上下に動かす。
「い、いひゃい〜〜! なにふるんだよ〜〜!」
「朝っぱらから幸せ振りまいちゃって。夕方には多くの女子を敵に回すことをお忘れなく!」
 言って、ようやく手を離した。美紀は頬をさすりつつ、久美子の言った言葉をかみ締める。
 そうだった。
 この前先輩がこの教室を訪れただけであの騒ぎだったのに、 もし下校しているところを目撃されたら、どうなるんだろう。
「久美子、助けてよ〜」
 美紀の情けない要求を、もちろん久美子は一蹴した。
「やだね。私に何が出来るって言うのさ」
「そんな〜、ご無体な〜」
「ほら、先生が来たよ。まあ、あんたがいじめにあったら、一応間に入ってやるからさ」
「いじめなんていやあ〜」
 そう悲鳴を上げたところで先生が、「何、お前早速いじめられているのか」と言うので、 美紀は大きく頭を振りながら着席した。
 
 待ちに待った放課後が来た。
 月に一度回ってくるトイレ掃除を、いい加減にこなし終わった美紀は、鏡とにらめっこをしていた。
「美紀、まだここにいたの?……先輩は?」
 と、久美子がトイレの扉を開け入ってきた。美紀は鏡から視線をそらして、手を洗う。
「え〜? たぶん、まだじゃないかな。迎えに来てくれるんだと思うけど…」
「じゃあ、ここにいちゃ駄目じゃん。教室戻ったほうがいいって。それに、ずっとトイレにいたら臭くなるよ」
「それはいや!」
 美紀は久美子の助言を受けて、さっさとトイレを出ていった。
 久美子はあきれつつそれを見送って、個室に入った。
 
 美紀は濡れた手をハンカチで拭きつつ、教室へ戻ろうと廊下を進んだ。 いくつか教室の前を通り過ぎ、階段の前に差し掛かる。
 と、その階段の上のほうから声が聞こえた。
「……にしても、ハヤト、お前も変わったな」
 その、ハヤトという言葉に引っかかり、美紀は足を止める。 この上は屋上へ続く階段になっているが、屋上へ続く扉は封じられているため、ちょっとした空間があるのみだ。
 そこには上級生が溜まっている、という話をよく聞く。喫煙しているとか、 麻薬をやっているとか。もちろんそれは噂の域を出ないのだけど。
「そうかな」
 ドキっと、胸が高鳴った。
 その、低く落ち着いた、耳に心地よい声。それは確かに先輩のものだ。
「そうだよ、だってお前、最近全然つまらねーし」
「つまらないって何だよ」
 三月先輩の笑い声。
「女の趣味も変わったべ」
「……まあ、そう言われたらそうなのかな」
 何の話をしているのかは分からなかったけれど、美紀はそこから動くことが出来なくなってしまった。
 女の趣味が変わったって、それは自分に関係のないことなのだろうか。
 それとも、もしかしたら……
「あれ? 美紀、まだこんなところに……」
 久美子の声がした。
 けれど、美紀の様子のおかしさに気がつき、すぐに黙る。そして美紀のやや後ろに立って、 その視線の先を追いかけた。
 掃除の時間の後の、その喧騒とかけ離れたところに美紀はいる。
 
「ま、気分転換って奴なんだろ?」
 第三者の声が発せられた。
 ……一体何人いるんだろう。
 会話の内容を理解するのを無意識に拒否しているのか、美紀はぼんやりとそう思った。
「昔からお前、女には困らなかったよな。ホント羨ましいよ。女子はお前の本性分かってないしよ〜」
 先輩の返答はない。
 何なんだろう、この会話は。
 誰のこと?
……彼らは三月先輩と話してる。じゃあ、これは三月先輩のことなのか。
それにしても、どういうことなのだろう。
女に困らないって、先輩が? 先輩の本性って、どういうこと?
「結局は顔か。世の中どうかしてるよ、全く。お前はお前で鬼畜だしな。やるだけやってさようなら、って奴だろ。……でもさ〜、今回はいくらなんでも可哀想だろ。あの子、 あれは絶対本気だせ? 修羅場になっても知らんよ、俺は」
 聞いていられなくいなった。本能的に拒否をする。
 美紀は震える足に何とか力を入れて、歩き出した。
「あ、ちょっと……」
 久美子の制止も聞こえなかったようだ。
 やがて美紀は、疾風のごとく駆け出した。普段のトロい美紀からは想像もつかない速さだ。
 その場に残った久美子は呆然としつつ、それでも階上から聞こえてきた声にわれに返る。
「お前ら、突然なんだよ。……俺は、確かに変わったけどね。とにかくもう、口出しは」
 三月先輩の声をそこまで聞いて、久美子は大きく息を吸い込んで、吐いた。
 そして、また吸う。
「……あ、ちょっと美紀!! 待ってよ!!」
 叫んでやった。
 そして、やや時間を置いて、駆け出す。
 後方から階段を下りてくる人の気配を感じながら。  

 

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