22.

 予想外であったとはいえ、陸上部の久美子が美紀の速さに劣ることはない。
 美紀を追って教室まで来てみれば、ちょうど美紀が鞄を持って飛び出して来るところであった。
「美紀!」
 すれ違いざまに叫ぶが、返答はない。そのまま美紀は、走り去っていく。
 自分の荷物は教室に置いたままであったが、久美子は美紀を追うことを先決にした。
 階段を下りる美紀の後を走りつつ、後方から三月先輩が追ってくるのをチラリと確認する。
 久美子でも先ほどの会話のことは多少、気になる。気になるからこそ、 余計に美紀のことが心配なのだ。
   
 美紀はそのまま昇降口を通過すると、外へ駆け出していった。
 上履きのままだったが、とにかく今は、止まらずに走りたい気分だったのだ。心の中では、 「何で?」という言葉だけがリフレインし、それ以上のことは考えられなかった。
 美紀は無意識に、人気のないところを目指した。前方の角を曲がって、 そして行き着いた先は焼却炉の前だった。
 校舎の陰の、袋小路。
 そこまで来て、ようやく美紀の足は止まった。
 息が上がって、肩が上下する。校舎の壁に寄りかかると、美紀は崩れ落ちるように座り込んだ。
「美紀、そこにいるの?」
 久美子の声が、角の向こう側で聞こえる。
「……久美子、来ないで」
 我ながら、酷い言い草だと思った。
 心配して追ってきてくれた久美子に対して、そんなこと言うなんて。
「先輩が追ってきてるよ。それでも、一人にして欲しい?」
 その言葉に、胸が痛んだ。
 先輩の、優しい笑顔が思い浮かぶ。
「今は、会いたくない」
 小さくつぶやいて、顔を伏せた。体育座りになって、両腕に顔を埋める。
 本当は、会いたいはずなのに。
「分かった。……だそうですよ、先輩」
 そんな久美子の言葉に、美紀の鼓動は一際大きく高鳴った。
 
 三月が美紀に、正しくは久美子に追いついた時に調度、その小さなつぶやきは聞こえた。
 振り返った久美子の顔を見て、大きくため息をつく。
 久美子の、皮肉そうなその笑みは明らかに、三月に対する軽い軽蔑が含まれていた。
「弁解する余地もない、っていうことか」
 大きくため息をついて、三月は苦笑する。息はまるで上がっていない。
「そのようですね、今は」
「美紀ちゃん、俺の話は聞いてくれないの?」
 美紀からの返答はなかった。
 美紀は一人混乱して、とにかく先輩の問いに答えるような言葉が見つからなかったのだ。
「とにかく今は、美紀を一人にしてやって下さい。まだ混乱してると思うので」
「そうだな。……分かった。美紀ちゃん、出来れば明日の放課後、教室で待っていてくれないか?  約束どおり一緒に帰ろう。その時に、ちゃんと話すから」
 やはり、美紀からの返答はなかった。
 三月はもう一度ため息をつくと、一度久美子と視線を合わせた後、踵を返し歩き去った。
 
 三月の姿が見えなくなると、久美子は改めて息をついた。
 一度自分の足元を見て内心、「あ〜あ」と嘆く。上履きが砂埃で汚れていた。
「……美紀、そっち行くよ。行っても良いよね」
 返事が聞こえる前に、もう久美子は角を曲がっていた。
 校舎の壁に寄りかかり座り込む美紀が見える。しかしその表情は見えなかった。 顔を両腕に埋めたまま、微動だにしない。
「そんなにショックだったの?……って、聞くまでもないか」
 久美子は言いながら、美紀の正面にしゃがみ込む。 「美〜紀〜ちゃん」と言いながら美紀の顔を覗き込んだ。
「泣いてんの?」
 問いながら、頭をなでなでしてやる。それをずっとしていたら、美紀が恥ずかしそうにようやく顔を上げた。
「泣いてないよ〜」
 半べそをかきながら言う美紀の顔は、何だか情けない。久美子が思わず噴き出すと、 美紀はやや不機嫌そうな表情を浮かべた。
「何で笑うの〜?」
「だって、あんた子ダヌキみたいな間抜けな顔してるんだもん。……あ、何だか子ダヌキっていい表現かも」
 久美子が一人で自分の言葉に満足しているのを見て、美紀はようやく笑みを浮かべた。
「酷いよ、久美子〜! しかも、間抜けって! こんなに私が落ち込んでるのに」
「まあまあ、とりあえず元気みたいで良かった。……さて、いつまでも座り込んでないで、帰りなよ」
「うん」
 先に立った久美子が、手を差し出してくれた。美紀は少し照れながらその手につかまる。
 力強く美紀を引き上げて、久美子は改めて美紀の顔を覗き込んだ。
「明日、ちゃんと先輩の話聞いてあげなよ」
「うん」
「いいこと教えてあげるよ。……先輩も、上履きのまま追ってきてたよ。それだけ、 美紀のことを追うのが重要だって思ったからだと思う。普通、履き替えようって思うし」
「そう、だったんだ」
 久美子だって、上履きだ。
 美紀は本当に、久美子の存在を有難いと思った。そして、久美子のことが大好きだと。
 そう思ったとたん、何だか体が無意識に動いて、久美子に背中から抱きついていた。 久美子はバランスを失ってたたらを踏む。
「ちょっと、美紀、重い!」
 久美子の抗議に美紀はパッと離れると、「早く来ないと置いていくよ〜」と叫びながら走り出した。

 

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