27.

「星野さん!」
 名を呼ばれた瞬間、美紀は反射的に立ち上がってその声の主を振り返り見た。
 ちなみにその時の表情が、「捨てられた犬が飼い主かと思って顔をあげた時のもの」だったのは言うまでもない。
「なんだ、松井先生かあ〜」
 美紀はまさしく一喜一憂、といった様子で、再び席に着く。
 英語の教師である松井博美は、呆れた様子で教室の戸口に立っていた。
「なんだじゃないでしょ? 今何時だと思ってるの。部活していた連中ももう、帰ってるんだからね」
「だって……」
「……ほら、もう6時半過ぎたんだから、帰った、帰った」
 松井はそう言いながら、教壇の中からごそごそと何やらを取り出す。6時間目にあった英語の授業で、何かを忘れて帰ったのだろう。
 松井はしぶしぶ立ち上がった美紀の背中を押すようにして、共に教室を出た。
「それにしても、何で教室に一人残ってたの?」
「待ち合わせで」
「待ち合わせったって、学校に残ってる生徒自体、ほとんどいないじゃない。何か、間違いがあったんじゃないの?」
 美紀は昇降口へ、松井は職員室へ。目的地は違うものの、とりあえずは同じ廊下を歩きつつ話を交わす。
「そうなのかも……。私、間抜けだし」
 美紀はそう言って、力なく笑った。そんな美紀を見て、松井も苦笑混じりのため息をつく。
「誰だったの? 待ち合わせの相手。今度、私が叱っておくから」
「三月、隼人先輩です……」
「うん? 三月だって?……三月っていうと、久島と付き合ってて一時期職員の中でも有名だった子かあ」
「え?」
「って、その頃のことを星野さんが知ってるわけないか。さて、じゃあ、ちゃんと家に帰りなさいよ」
 昇降口と職員室との道筋を分ける分岐点で、松井はさっさと自分の進む道を歩いていってしまった。
 でも美紀は、呆然と立ちすくむ。松井の何気ない言葉、「久島と、付き合ってて……」という部分が、頭の中に刻み込まれて離れない。
 それは、今現在? それとも過去の話?


 それから美紀はふらふらと、学校前から駅前へと往復するバスに乗り込み、そして何となく足を若葉通りの公園へと向けた。
 噴水が上がっている。まだライトアップはされていない。
 先輩と初めて手をつないだ、あの日のことが思い出された。何よりあの日は、先輩からキスをされたのだった。
 あれは何だったのだろうか。自分をからかって遊んでいただけだったのだろか。
 でも、と美紀は思い直す。
 あのキスをされたあの日の、先輩の真剣な表情に嘘はなかったはずだ。
 「その時が来たら、自分から言う」と、先輩は言っていた。それを信じたいけれど。
 でも考えてみたら、その時なんてモノは、来ないのかも知れないし。結局、期待した自分が悪かったのかも。
 期待と不安が入り混じった美紀の頭の中はもうグチャグチャで、こんなこと考えていても答えは出ないのだということにも、気が付かなかった。
 そうして、ふと顔を上げれば、辺りはもう真っ暗になっていた。

 名前を呼ばれたような気がする。
 焦点の合わない視線をさまよわせてからしばし、美紀はようやく隣に座っている人物の存在に気が付いた。
 ライトアップされた噴水の光に照らされて、見知った顔がにこやかに微笑んでいる。
「あ〜〜〜! 小田君!」
「どうも、お久しぶりですう」
 小田はそう言って、楽しそうに笑った。
「何でここにいるの〜?」
「何でって、あっちが俺んちだからさ〜」
 公園の向こう側を見やって、小田は笑う。
 昔から小田の笑顔が好きだったなあ、と思いつつ、美紀も自然に笑みを浮かべる。
「そっちこそ、こんなとこに一人でいたら危ないよ? 変態なおじさんに連れて行かれても文句は言えないねえ」
「はあ……」
 気の抜けたような美紀の返事を聞いて、小田は苦笑しつつ美紀の肩に手を置いた。
「何かあったの? このかっちょ良いお兄さんに話してみなさいな」
 その言い方にうけたのか、美紀はちょっと笑いつつ、つぶやくように話し出した。
「……それが、私にもよく分からないんだ」


 三月先輩ってホント、何考えているのか分からないし。
 私が三月先輩のこと好きだっていうの、分かっているはずなのに先輩はそれを言わせてもくれない。
 かといって、先輩は自分の気持ちだって言わないし、私は期待していいのか、いけないのか、本当に分からないんだ…
 しかも、私ってホント、先輩のこと何にも知らないんだなって、改めて思い知らされたし。
 そもそも、あんなにかっこいい先輩に彼女がいないわけないって、何で思わなかったのかな。
 ほんのちょっとしか話したこともなかったのに。
 ちょっと舞い上がりすぎたっていうか。
 全然駄目だった。
 私、バカみたい。
 ホント、バカ。
 すごくバ……


「まあまあ、美紀ちゃん」
 段々自暴自棄になっていく美紀の言葉を、小田は呆れながらさえぎった。
「そこでストップな。俺事情よく分かってないし」
「あ、そっか〜……ごめん」
 ついつい、グチになってしまった。
 でも美紀にとって、小田は昔から話しやすい相手だったのだから仕方ない。
 将行と小田の付き合いはなんと、小学生から今までずっと続いている。その間に美紀とも仲良くなっているし、美紀にとってはもう一人の兄、いや、唯一の男友達なのだ。
 小田の前では気を使うこともないし、不必要にボケることもない。……まあ、ボケたくなくてもボケてしまうのは、天然ボケの性なのだが。
「でも何となく分かった。ともかく、今日は帰りましょうねえ。お兄さんとお友達、心配してたよ?」
「へ?」
「特に、久美子ちゃんの方は」
 すでに久美子ちゃん呼ばわりなのには、もしその場に本人がいたら突っ込んでいたことだろう。
 でも美紀は特別気にならなかったようだ。
「え? 久美子が〜? なんで? どうしよう〜」
「ともかくね? 俺が将行君に電話をするからね? ここで待っていなさいな」
 そうして小田は携帯電話を取り出した。
 美紀は何となく不安に思いつつも、ただ黙ってその様子を見ていた。そしてふと公園の時計を見上げて、その時計が8時15分ほどを示していたのには、美紀自身、唖然とするほど驚いていた。

 

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