30.

 ……今、先輩の口からものすごい言葉が出たような気がする。
 美紀は、赤面するのも忘れたまま、硬直していた。
 ホットケーキにフォークを指したまま、その手は虚空で停止している。先輩は、食事に手をつけようともしていなかった。
「それに、美紀ちゃんは入学式のときに話したことを覚えてる? 俺、あの時の会話が忘れられないんだよ。あの時は、俺が美紀ちゃんを励ましたような形になっていたけど、その実、俺自身も何だか視界が開けたような気がしたんだ」
「入学式のとき? 私、何か凄いこと言いましたっけ?」
 美紀は放心気味のまま、首を傾けた。
 停止した手に握られたフォークを、力なくプレートへ戻す。
 何となく、焦点が合っていないのは、仕方がないと言うべきか。
 なにしろ美紀にとっては、先輩と向かい合って話をしていることすら至福の時を過ごしていると言っても過言ではないのに、その上彼の口から、好きだという言葉が出ようものなら、失神してしまいかねないところなのだ。
「あの時俺が言った言葉は、実を言えば亜矢子の受け売りだった。その上俺自身が、その言葉を飲み込めずにいたんだ。理解出来なかったし、しようともしなかった。……というか、反発していたんだ。明るく前向きに生きようとしたところで、そんなことがすぐに出来るわけじゃない。性格は今更変えられないと思っていた。例えそういう努力をしたところで、自然に良い友人関係が作れるとも思えなかった」
 美紀は、先輩の独白のようなその言葉に、あの入学式の時の場面を重ねていた。
 あの日美紀は、先輩に学校が好きかと尋ねたのだ。
 中学生の頃の自分は、人に対しておどおどとした態度で接し、当り障りのない会話を交わすことで、誰とも親密になることはなかった。
 どういう態度や言葉が、相手を怒らせたり不快にしたりするのか、そういうことばかりが気になって、自分の意志や意見を表に出すことがなかったのだ。
 でも逆にそういう態度を取っていたことが、周りの人間を遠ざけていた。それが更に自分に対する不信へとつながり、一時期は学校へ行くのが本当に嫌だったときもある。
 でもいつも、心の中ではこんな状況から脱しなければならないとも思っていた。
 高校への進学は、それを思い切るに充分な機会だった。
 ただ、何かきっかけが欲しかったのだ。
 そしてそのきっかけを、偶然知り合い、会話を交わすことになった先輩に求めたのだった。
 そして先輩の言葉は「きっかけ」以上に、美紀の力となった。
「そんな俺に比べて美紀ちゃんは、俺の言葉をすぐに飲み込んで、そしてすぐに、……それこそ、前向きになったよね。正直、羨ましいとも思ったよ。でもだからこそ、すごく魅力的に感じた」
「そ、そんな、私が魅力的だなんて……」
 美紀は何故か慌てつつ、頭を振った。それこそ、恐縮の思いだ。
 先輩はそんな美紀の行動に構わず、言葉を続けた。
「そして、美紀ちゃんとそんなことがあったからこそ、亜矢子への想いを振り切ろうと思ったんだ」
「……先輩」
 先輩にとって、久島さんとの付き合いがどういうものだったのか、美紀に知る伝手はない。
 けれども、久島さんという人が先輩にとって、大きな存在だったことは確かだ。振られたからといって、それをすぐに割り切れるわけがない。
「私なんかとの会話で……?」
「俺にとっては、なんか、じゃなかったんだ。もちろん、それだけで割り切れる問題でもなかったんだけどね。……俺は凄く複雑な立場に置かれていたし」
「複雑な立場?」
 美紀が問い返すと、先輩は頷いて、そして飲み物に手を伸ばした。
 確か先輩は、ウーロン茶を頼んでいたはずだ。先輩はそれを一口、二口飲んでから、元の位置に戻した。
「……俺との別れ話をしたあと亜矢子は、すぐに入院してしまったんだ」
「入院って、どうして……」
「劇症肝炎が発症したんだ。この病気は治療が難しいらしくて、肝移植も必要となる場合が多い。本人や家族ともに負担が大きい病気なんだよ。……確かに別れ話が出る前、亜矢子の身体の調子は本当に悪そうだった。倦怠感をよく訴えていたし、そのうち熱も出たりしてね。でも、それも一度は回復したように見えた。少なくとも、別れ話を切り出されたときはね。それからしばらく連絡が取れずにいて、直接家に訪ねたときに、親の口から劇症肝炎だと知らされた」
 美紀は、先輩から語られるこの重い話に対して、何も言うことが出来なかった。劇症肝炎という病気がどういうものかは知らなかったが、深刻な話であることは馬鹿でも分かる。
 自然と鼓動が早くなり、腿の上で無意識に、手を握りしめた。
 先輩の表情も、硬い。
 先輩はテーブルの上に置いた自分の手を見つめながら話を続けた。
「病気にかかったからと言って、好きだった相手を諦めようというわけじゃなかった。むしろ、彼女と共に病気と闘ってもいいとさえ、思ったけどね。でもそれは、本人からすれば結局、健康な者の偽善でしかないんだ。症状が進むと肝性脳症という症状が出て、それで異常な行動が出たり興奮して暴れたり、逆に昏睡状態になったりもする。何より、身体の中のあらゆる臓器に障害が起こるから、容姿もどんどん病的になっていくんだ。そんな状態で、好き、嫌いとか、付き合う、付き合わないとか、そんなことが話せるわけもない。それに亜矢子のプライドもあったからね。……もちろん俺としては、病気になった亜矢子から逃げることになるような気がして、嫌だった。でもそれは俺の勝手な事情であって、亜矢子はもっと辛いんだ。そして、亜矢子の中では、もう全てに決着がついていた」
 先輩はそこまで言うと、自分の手に注いでいた視線を上げて、美紀を見た。
 そして、複雑な表情になって、やがて自嘲の笑みを浮かべた。
「ごめん、ちょっと重い話になってしまったけど」
「い、いいえ……」
 否定した声が、かすれてしまった。
 重い話であったことは確かだ。自分の生きている環境とは、別世界の話のようだった。
「昨日は、彼女の具合が急変したと連絡が入って……、そんなわけで、約束を破ることになってしまったのだけど」
「そのことは、もういいんです」
 美紀は、かすかに笑みを浮かべながら、そう言った。
 ただ、笑顔を浮かべたと思ったのは美紀だけで、それは形にはならなかったのだが。
「それで、大丈夫だったんですか?」
「ああ、何とかね。……来週、アメリカに発つらしい。肝移植を受けるんだ。もしかしたら、それで完治するかも知れない」
「そう、ですか。そ、その、良かったですね」
 こういうとき何と言えばいいのか、全く分からなかった。
 美紀の心境は、何となく落ち着かない。
「……うん、完治してもらいたいと思ってるよ」
 先輩がそう言ったので、美紀は複雑な表情で頷いた。  目の前の冷え切ったプレートをぼんやりと見つめながら、何も考えたくないと思った……


 

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