31.

「お、三月、今から帰り?」
 将行はその日の放課後、階段から降りてきた三月にそう話しかけた。
 丁度、帰ろうと昇降口へ向かっていたところだ。今日はさっさと帰って、昨日買ったゲームをやろうという魂胆である。
 三月が下って来た階段の、その先に唯一あるのは図書室だ。
 丁度掃除が終わった頃だから、今の時間帯は図書室に向かう生徒は多いが、図書室から出てくる生徒は少ない。
 なので、少し違和感を感じた。
「ああ、予備校の自習室にでも行くさ」
 三月はそう言って、少し笑う。
 男の将行から見ても、整った顔をしている奴だと思う。
「そりゃ、真面目なことで。……W大の推薦、確実なんじゃなかったかい?」
「いや、推薦で受けないかも知れないんで。ちょっと、進路悩み中」
 優秀な三月でも、進路に悩むのかと思いつつ、将行はふと疑問に思ったことがあった。水曜日は、三月は予備校の授業がないはずだ。
「ふうん。でも今日は予備校、授業ないんだろ? いつもは図書室で勉強してるだろうに」
「ああ、ちょっとね。暇があるなら、上に行ってみて貰えるかな。俺はちょっと、罪悪感あるんで」
「……あ? ああ、なるほどね」
 将行は事情を納得して、行く先を図書室にへと変更した。


 美紀が三月先輩から色んな話を聞いてから、一週間が経った。
 三月先輩の気持ちは、よく分かったと思う。
 先輩が今までどういう人だったのか、誰と付き合っていて、その人はどういう人だったのか、そういうことも全部分かった。
 そして、なぜ自分に好意を持ってくれているのか、ということも。
 でも今度は、自分の気持ちがわからなくなってしまったのだ。
 美紀は、少し時間が欲しい、と三月先輩に頼んだ。
 時間が欲しい、と言ったのには、もちろん理由がある。
 それは、三月先輩の口から、確かに告白された。
「……これから、美紀ちゃんと色んなふうに時間を過ごせたらいいなと思ってる。もしよければ、付き合って欲しい」
 告白されたのも初めてだったが、こんなに複雑な気持ちで告白を受けるのも、きっと滅多にないことだろう。
 美紀はそして、返事は待って欲しい、と答えたのだった。
 これが、もっと前に告白されていたのだったら、二つ返事でOKを出していたことだろう。あるいは、三月先輩の事情を聞かされる前だったのなら。
 でも、本当は分かっている。
 三月先輩がどうしてこういうタイミングで告白したのか。
 三月先輩のことをずっと好きだった自分でさえ、事情を聞かされた後では色々と迷ってしまう。
 迷って当然の事情だったから、三月先輩は軽軽しく人と付き合いたくなかったのだろうし、ましてや、こういう事情を聞かされても全く迷わない相手とは付き合えないのではないだろうか。
「どうしよう……」
 美紀が迷っているのは、三月先輩の気持ちを考えてのことだった。
 久島さんのことを、嫌いになって別れたのではないのだ、ということ。
 久島さんは、アメリカに行って、完治する可能性があるのだということ。
 三月先輩は、まだ久島さんのことが好きなのではないだろうか。そして、久島さんが完治したら、またよりを戻すのではないだろうか。
 もちろん、三月先輩はそういう可能性がないということを念頭に入れて、告白をしたのだろう。
 けれど、可能性はゼロではない。
 そして、二人のよりが戻ろうとしたとき、自分の存在はその障害となる。
 自分が、よりが戻るまでのつなぎの存在だったとしたら、それはそれで悲しい。
 そういうふうに割り切ることは、出来ないだろうと思った。
 もちろん、先輩を信じたいという気持ちはあるのだが……


「まだ悩んでんのか〜?」
「お、お兄ちゃん……」
 いきなり思いもよらない相手から話しかけられて、美紀は驚いて顔を上げた。
 視界に入ってきた周囲の景色を、しばらくぶりに脳が認識してくれる。
 美紀は今、図書室に来ていた。
 図書室の掃除当番を終えた後、そのままそこに居座って、悩み事をしていたのだ。
「ど、どうしてここにいるの〜?」
 声のトーンを押さえたヒソヒソ声で、美紀は向かいの席に座る兄、将行に尋ねた。
「そりゃ、俺だって図書室に来ることもあるさ〜。受験生だからな」
 将行はそう言って、ニヤと笑った。
 とはいっても、将行は大学に行く気はないのだ。だから、受験生という言葉が正確なのかは分からない。
 将行は、車の整備士の資格を取るために、専門学校に行くと言う。母親はそれについて、何の反対もしなかった。お金がかかるとか、そういうことを一つも口にしなかったのだ。
 むしろ、この進学校において反対をしたのはもちろん担任の先生で、それについては多くの時間、話し合ったという。
 最終的には将行が押し切った。
 ともかくそういうことで、将行は大して勉強に勤しんでいるわけではない。大学受験に比べれば、専門学校の試験は簡単なのだ。
 なので、将行には図書室に来る理由はない。本を読むという、崇高な趣味を持っているわけでもないし。
「それよりお前さ〜、いつまで待たせるつもりなんだよ。三月もいい加減、待ち疲れてんじゃねえの?」
「……う、そうかな」
「まあ、無理に急げとは言わんけどさ」
 将行はそう言って、近くの棚にあった雑誌を取って、めくる。
 市の、情報誌である。
 美紀はそんな態度の兄を見て、自分の相談にのろうとしてくれているのか、それともどうでもいいと思っているのか、解りかねた。
「お兄ちゃんは、三月先輩の事情、知ってて協力してくれてたわけ?」
「あ〜?……っていうか、そんなことどうでもいいじゃん。俺はただ、二人にとっていいように協力してやっただけなんだからさ」
 やっぱり、相談にのってくれる訳ではないらしい。
 美紀はちょっとむっとして言い返す。
「どうでもいいっていうような事情じゃないじゃん」
「事情、事情って。……その事情の如何によって、三月を見る目が左右されるっていうのかよ」
「そ、そうじゃ、ないけど」
 美紀は痛いところをつかれたような気がして、語尾を弱めた。
「何を悩んでるのかは知らんけど。要はお前が三月と付き合いたいか、付き合いたくないか、ってことだろ? お前の気持ちの問題なんだし。はっきりさせろよな」
 将行はそれだけ言うと、雑誌を元の位置に戻して立ち去ってしまった。
 残された美紀は、釈然としない気持ちだった。


 

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