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人々の、意味の聞き取れないざわめきが、店内を満たしていた。そして、香ばしい肉の香りと、ポテトの油の香りが漂っている。 その中の一角に、美紀は親友と向き合って、座っていた。 「まあ、兄ちゃんの言ったことにも一理あるわな」 久美子はそう言って足を組みなおした。 将行から、「はっきりさせろ」と言われたのは昨日の事だ。 美紀はあれから一晩悩んだが、結局結論は出なかった。それで、久美子に相談をしたのだ。人に相談するような内容ではないし、本来なら自分で結論を出すべきなのだろう。けれど、一人で悩めば悩むほど、結論は出なかった。 そして一日経った今日、美紀は放課後、久美子をマクドナルドに誘って相談を持ちかけたのだ。 相談料はポテトとジュース。 「だから、悩んでるんだよ〜」 美紀はそう言って、テーブルに突っ伏した。 「それにしてもあんなにストーカーしてた美紀が、今度は先輩を避けるようになるとはね」 「ストーカーじゃないし!……ううう、でも確かに今は、避けてるかもしれないけどさ…」 美紀はテーブルから身体を起こして、今度は頬杖をつく。 目の下にはクマが出来ていた。 「で? どうなの?」 「……どうなのって?」 「だから、兄ちゃんの言ってた事。あんたは先輩と、付き合いたいの? 付き合いたくないの?」 「それが分からないから一晩悩んでたんだってば」 「何でよ? 簡単なことだと思うけどなあ〜」 久美子は言いながら、ジュースを飲み干した。 ポテトはすでに、カリカリ感を無くして、しんなりとしている。 「そうかなあ?」 「だってさ〜、あんたは先輩のこと好きな訳でしょ? 先輩も付き合おうって言ってくれてる訳だし。それでいいじゃん。先輩を信じなって」 「……でも。そんなに簡単な問題なのかな?」 先輩と久島さんは、それでいいのだろうか? そして、自分も、それでいいのか。 「あんたの悩む理由も分かるんだけどさ」 久美子は、いつまでも同じところで踏みとどまっている美紀に呆れながら、言った。 「その、久島さんって言う人の病気は別問題なんだよ。そこを分かってる? 先輩はその人とは大分前に分かれたんだし、それにもう、割り切ってる。問題は、あんたの気持ちなの」 「それで、いいの?」 「あんたはこれが初めての恋愛なんだし、今までの経緯からして、臆病になるのは分かるけどさ。……言っとくけど、こんなチャンスはもう二度と来ないかも知れないんだよ? 逃がしてどうすんの。とりあえず付き合ってみて、やっぱり無理だったら別れればいいしさ。恋愛は場数だから。……あとは、あんた次第」 「うん」 美紀は、頷いた。 久美子の言っていることは最もだと思う。 けれど、どこか納得しきれていない自分がいるのも確かなのだ。美紀はだからその日、結局決断を出来ないまま、久美子と別れた。 翌日。 「星野さん」 教室でボっとしていたら、誰かから呼ばれて美紀は視線を上げた。 目の前には松井先生が立っていた。 濃紺のスーツを着ていて、スリムな身体によく似合う。脇には英語の教科書が抱えられている。 「松井せんせ〜? 何か用ですか?」 「用ですか? って。……星野さんって、いつもボウっとしてるんだから。もう五時過ぎたんだから、家に帰りなさい。貴方、帰宅部でしょう?」 言われて辺りを見回せば、教室にはもう、誰も残っていなかった。帰ったか、部活に出ているのだろう。 「先生、もしかして、また忘れ物ですかあ?」 担任でもない松井先生が、頻繁にこのクラスに訪れるはずもない。先生は余裕の笑みを浮かべたが、それでも教室の前にある教壇の机の中から、辞書を引きずり出した。 「先生もボっとしてるんじゃないですか?」 「……あはは、どうも、忘れちゃうんだよねえ」 松井先生は開き直っているようだ。 取り出した辞書で肩を軽く叩きながら、早く帰るよう念を押し、教室を出かけた松井先生は、途中で振り返った。 「あ、そうそう、報告」 「はい?」 「三月のこと、ちゃんと叱ってやったからね。約束破る男はいつか痛い目に遭うよってね」 「そ、そんなこと言ったんですか?!」 三月先輩だって、悪気があって約束を破ったわけではないのに。 「あはは、まあ、冗談だけどね。三月も苦笑してたし。……もう痛い目に会ったってさ」 松井先生は笑って言う。 しかし美紀は、それを聞いて驚き、思わず机から立ち上がった。 「痛い目ですか? け、怪我したとか…」 美紀がそう言って一瞬不安そうな顔になったので、松井先生は更に声を上げて笑った。 「そういうことじゃないって。星野さんって面白いねえ。何かね? 好きな女の子に避けられてるらしいよ? あの三月がねえ。笑っちゃうよね」 松井先生はそう言って、じゃあ、さようなら、と教室を後にした。 美紀は何がなにやら、とりあえず立ち尽くしたまま、しばし呆然としていた。 |