33.

 その日の夜、美紀は机に向かい、日記帳を開いたまま、ボウっとしていた。
 日記帳は白いままである。
 実はここ最近の日記も、とっても簡素なもので終わっている。
 ただ行動したことを列挙しているだけで、そこには美紀の心情は描かれてはいない。
 少し前の日記ならば、三月先輩への想いについて、何ページにもわたって綴られていたのだが。
 美紀はそれを読み返して、自分がどれだけ先輩のことを好きだったのか、しみじみと思い知らされた。そしてそれと同時に、その頃の自分が、三月先輩について全く知らなかったことを知る。
 三月先輩のことを知らなかったから、好きでいられたのだろうか。
 そんな恐ろしい発想をしてから、美紀は慌ててそれを打ち消そうと、頭を振った。
 でも。
 今更ながら、人を好きだという感情が分からない。
 何故好きなのか。どこが、どういうふうに?
 そして付き合うということは、どういうことなのか。自分は何を望んでいて、何を望まれているのだろう。
「そんなことを真剣に考えて付き合ってる高校生って、少ないんだろうなあ……」
 美紀は思わずそう独り言を呟くと、机から立ち上がって、ベッドへ倒れこんだ。



『おどおどしたお前を見ていると、こっちまで憂鬱になるよ』
 低い男の人の声が、頭の上から響いた。
『だから、友達一人出来ないんじゃないか? めそめそしやがって、誰に似たんだか。……自分の部屋に行ってろ。子供はもう寝る時間だ』
 大きな手で、頭を強く押された。
 その反動で身体は傾き、バランスを失い床に倒れこむ。
 床の冷たい感触。
 膝の痛み。
 押さえきれない嗚咽、涙、泣き声……



 美紀は目を覚ますと、しばし焦点の合わない瞳で枕の柄を見つめていた。
 のろのろと起き上がると、時間を確認する。あと3分もすれば、目覚まし時計がけたたましく鳴ることだろう。
 嫌な夢を見た。
 美紀はベッドから降りると、身支度をして部屋を出る。
 ダイニングに行けば、兄がすでに起きていて、牛乳のパックを冷蔵庫から取り出してそのまま口をつけて飲んでいた。
「あ〜〜、お母さんに怒られるよ〜。コップを使いなさいって言われてんジャン」
「めんどくさい」
 将行は一言そう答えて食卓につくと、用意された朝食を食べる。美紀もご飯と味噌汁を器によそうと、椅子に座った。
 しばらく二人とも黙ったまま、食事に専念する。
 やがて全てを食べ終えた将行は、ぼうっとテレビを眺めていたが、ふと美紀の方を向いて口を開いた。
「オヤジが」
「……え?」
 思いがけないその言葉に、ドキッとした。今日見た夢が蘇る。
「再婚するらしい。昨日の夜、電話あった。……お母さんには内緒だけど、お前には一応言っとくわ」
「あ、うん……」
 優しい父親だった。けれど、お酒を飲むと、乱暴になる父親だった。
 暴力を振るうから、美紀はいつもおどおどとしていた。父親の機嫌を伺った。学校でも友達の機嫌を伺った。
 そうして、心を許せる友達が出来なくなった。
「……禁酒出来たのかな?」
「さあね? 俺もよくは知らんけど。……まあ、関係ないっしょ」
 その話はそこで終わった。
 寝室から母親が出てきて、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んでいる。その母に、「美紀、早く食べちゃいなさいよ」と言われて、美紀は味噌汁を一気に飲み干した。


「で、決まった?」
 朝のSHRが終わると、久美子が美紀の机までやってきて、開口一番にそう尋ねてきた。
「へ?」
 何のことを言っているのかさっぱり分からなくて、美紀は間抜けな声を出す。
 久美子は呆れ顔で美紀の前の、机の椅子に腰掛けた。
 美紀の前は石岡君の席で、その当人は今、窓際の岡野君のところに行っている。
「へ? じゃなくてさ〜? あんたの気持ちは決まったの? って。結局どうするの? 付き合うの?」
「う〜〜ん」
「まぁだ悩んでるの?」
「う〜〜ん……」
 美紀は曖昧な返答しか出来なかった。
 そして逆に、久美子に問う。
「あのさ、付き合うって、具体的に何するのかな?」
「はあ?……そりゃ、休みには一緒に遊びに行ったりさ〜? キスしたり? 外泊したり何なり」
「そ、そうなんだ」
 美紀はなぜだか顔を赤くして、俯いた。
「変な子ねえ……」
 久美子は呆れ顔で、俯いた美紀の顔を覗き込む。
「まあ、それは付き合ってからのことで。そもそも、一緒にいたいから付き合うんじゃないの? 好きな人とはさ、話をしたり、一緒にいたいって思うっしょ」
「うん、そうだね」
 久美子の言葉は、何となく、昨日悩んだことの解答を与えてくれているようだった。
「その人のことを一日中考えていたりさ、意識したり。凄く悩んだり。そういうことでしょ」
「……久美子、いいこと言うなあ」
 美紀は、目から鱗が落ちたかのように、嘆息交じりに言って笑った。


 

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