38.

 一瞬、何が起きたのか、美紀には理解出来なかった。
 間近に見える、白いシャツと、濃紺のネクタイ。そして、少し甘い香り。体温、少し早めの鼓動。
 自分が抱きしめられているんだと気がついたのは、どのくらい経ってからだろう。長く感じたけれど、本当は一瞬の間のことだったのかも知れない。
「……好き」
 美紀の口から、ぽろっと、そんな言葉がこぼれた。
 頑張っても言えなかった言葉が、簡単にこぼれ落ちてきたのだ。
 美紀の身体は完全に弛緩して、涙も収まってしまった。緊張もしていない。むしろ、凄く冷静だった。
「私、先輩のこと、凄く好きです。私と付き合って下さい。お願いします!」
 言えた。
 はっきりと、自分の気持ちが伝えられた。
 その事実に、美紀は嬉しくなって、また涙が込み上げてきた。
 返事はまだ聞いていないというのに。
 けれど、もちろん、返って来る返事は一つしかない。
「……こちらこそ、お願いします」
 耳元に、心地よくその声は届いた。
 美紀はもう嬉しすぎて、泣いているんだか笑っているんだか、よく分からない自分を隠すために、先輩の胸に顔をうずめた。
 後で思い返せば、きっと気絶するくらい恥ずかしいだろうことも。
 今なら自然に出来てしまう。
 先輩は、自分の頭を撫でてくれている。そして、美紀が顔を上げたとき、先輩と目が合った。
 間近で見るその顔は、あまりにも格好良すぎて、夢を見ているかのようだった。
 美紀の頭を撫でていた手が、頬に移動する。
 涙でベタベタの頬を親指で拭ってくれるのが、とても心地よくて、美紀は瞳を閉じた。



 そんな幸せな時間がどのくらい経ったのだろうか。
 美紀ははっと我に帰って、目を開いた。
 少し湿っぽくなった先輩のシャツが見え、心地よい鼓動の音が聞こえる。
 そして美紀は、内心焦りながら鼻水をすすり、ポケットからハンカチを出し顔中を拭いてから、上を見上げた。
 先輩の顔は伺えなかった。
 美紀がもぞもぞと動き出しても、先輩は腕を解こうとはせず、いい加減美紀も恥ずかしいやら、どうすればいいやら、分からなくなった。
「あ、あの〜〜」
 思い切って、声をかけてみる。
 ところが、先輩からの返答がない。いったいどうしてしまったのだろう。
 美紀は不安になって、もう少し大きな声を出してみた。
「せ、先輩!」
「あ、ごめん、苦しかった?」
 ようやく先輩が腕を離してくれた。苦しくはなかったものの、このままでは美紀の小さな心臓は破裂してしまうところであっただろう。
「どうしたんですか?」
「……いや、ちょっとどうしたものかと考えててね」
「え?」
 美紀は先輩の言葉に疑問を感じつつ、ようやく自分の周囲がどんな状況になっているかを知った。
 まず見えたのは、兄将行の、人を馬鹿にしたかのような顔。予備校に通っているわけでもないのに、なぜここにいるんだろう。
 その隣には笑顔の小田。
 そして……人、人、人。
 たくさんの人。
 やがて、歓声が起こった。いや、歓声と言うのには、少し誤りがあるだろう。その中には間違いなく、非難の声も混ざっていたのだから。
「な、……ななな……」
 なんで? と、心の中で何度も自問した。
「いやあ、見させてもらったね。全く、さすが三月」
 将行がそうコメントする。「この女たらし」とは、小田の言葉である。
「おだやんがあまりに派手に三月を探すもんだからさあ。皆何事かと思って出てきちゃったんだよな」
「だあって、俺、三月がどこにいるか知らなかったしさ〜」
 頭の中が真っ白になった。
 この一部始終を皆に見られていたのかと思うと。
 美紀は膝の力が抜けて、崩れ落ちた。
 それを三月が支え、それで一層声も高まったので、美紀は意識を手放すことも出来ない。
 しかし幸いにも、その騒ぎに塾の先生たちが気づき、生徒を収め始めた。
「何やってるんだお前ら、さっさと中に入って勉強しろ!」
 その先生の怒鳴り声は辺りに響き渡り、多くの野次馬たちは建物の中に引っ込んでいった。
「美紀ちゃん、ダイジョウブ?」
「は……」
 声も思うように出なかった。
「じゃあ、俺は美紀ちゃんを送って帰るので」
 三月は残った将行にそう告げると、美紀を支えて歩き出した。
 将行は不敵な笑みを浮かべてそれを見送る。
「三月、何か言うことは?」
「……ああ、協力感謝」
 三月は将行の肩に手を置きつつ、礼を述べた。
「前途多難だけどな」
 将行は美紀の様子を見て、気の毒そうに言ったが、美紀は放心状態だ。
「これからが楽しみだね」
 三月はそれだけ言うと、美紀を支えたまま、つまり肩を抱いたまま、駅の方へ歩き去った。
 当然その姿は、学校の生徒の多くに目撃され、その噂は学校中ならず市内に広まったのであった。




「……久美子、不気味なんだけど」
 翌日、様子を伺いに美紀の家を訪れた久美子は、昨日あったことの一部始終を聞いてしばらく、ニヤニヤと笑みを浮かべ続けていた。
「うへへ〜。だってさ〜、美紀がねえ」
「……」
 美紀はベッドの上に座りながら、頬を赤らめて、それを隠すかのように枕を抱えていた。
 久美子はそのベッドに身を乗り出しながら、美紀の顔をしみじみと見つめる。
「この〜! 幸せもんが〜〜!」
「きゃあははは……」
 いきなり襲いかかった久美子に押し倒されながら、美紀は悲鳴を上げて笑った。
「あ〜でも、何だかさあ。ちょっと聞いてて、恥ずかしかったよ、私は」
 久美子は美紀を押し倒したまま、美紀の顔を見下ろしてそう言った。
「そ、そう?」
「何かさ〜、少女漫画みたいじゃん?? ……先輩もツボ押さえてるよね〜」
「ツボって何よ〜?」
 美紀は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
 久美子は意地悪そうに笑う。
「最初にあんたが告ろうとした時さあ、わざと誤解したような態度を取ったんじゃないの〜?」
「なっ、いくら久美子でも怒るよ〜」
「だってさあ、何かあの先輩、色々経験してるわけじゃん? そういうこと、自然に企めそうなんだもん」
「うう〜、そうなのかなあ〜…」
「あんた、まんまとしてやられたって感じ?」
 久美子にそう言われて、美紀も何だか納得してきてしまった。
 ちょっと不安そうな表情になるところが、カワイイというか何と言うか。
 三月先輩もこういうところが、好きなんだろうなあ、と久美子は思う。
「でも、結果的にはバッチリなんだけどね。っていうか、あんた本当に幸せ者だよ。ちょっと、感動」
「てへ」
「てへ、じゃないの! だけどあんた、来週覚悟して学校に行った方がいいよ? 女子生徒から袋叩きに会うかも」
「う……、それは言わないで……」
「まあ、それも一時のことだろうし、頑張るんだね。私も応援するし。……それに、あんたにしては良くやったよ、誉めて使わそう」
「うん、星野美紀、頑張りました!」
 美紀はそう言って、押し倒された格好のまま、敬礼して満面の笑みを浮かべた。



完。



 

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