32.

「星野さん、もうちょっとキビキビ動いて!」
 新しいホットコーヒーを落とそうと、コーヒーの粉の袋を開けようとしていたら、後方から忙しなく動く宮沢有里に注意を受けてしまった。美紀の動作が鈍いので、イライラしているのだろう。
 今日の店内は人手が足りない割に混雑していて、バイトたちが店内を駆けずり回っていた。ゴールデンウィークで、祝日だからだろうか。
「ご、ごめんなさい」
 美紀は慌てて、フィルターの中に粉を移そうとする。けれど急いだせいで、手が滑って粉が床に散らばってしまった。
「あ、ごめんなさい!」
「本当にもう、星野さんトロいんだから。しっかりしてよ」
 有里は更にイライラして文句を言うと、ホールの方へ出て行ってしまった。美紀はなんとか新しいコーヒーをセットし、床に散らばった粉を紙ナプキンでかき集め捨てる。
「美紀ちゃん、気にすることないから」
 ホールから客が食べ終わった皿を持ってきた小田が、皿を置きながら美紀に言った。
「あ、聞こえてた〜?」
「宮沢さん、機嫌悪いと人に冷たくなるんだよな〜。普段はけっこうサバサバしてて、いい奴なんだけど」
 小田は言いつつも、新しい客が入ってきたのを見つけ、「いらっしゃいませ」と声を上げた。
「美紀ちゃん、ご案内よろしくね」
「あ、は〜い」
 美紀は小田に言われて、慌ててメニューを掴み、入り口に走った。
 しっかりしなくちゃ。
 あんなにキビキビ仕事が出来る宮沢さんや小田君とほとんど変わらない時給なのに、自分だけがトロトロしていたら申し訳ない。
 美紀は必死になって、仕事をこなした。同じバイトの子に、あれしてこれして、と言われる事を何とか済ませていく。
 まだまだ、一人前からは程遠い。猫の手くらいには、なるんだろうけど。
 美紀は半分落ち込みつつ、ようやく仕事の終わる時間になり、皆に声をかけながら控え室に戻った。
 本当はこんなに忙しいときは、残業を頼まれることが多いらしいけれど、美紀は高校生だから特別に時間通りに上がらせてくれる。
 中にはすでに、キッチンで働いている杉崎哲也が座っており、水の入ったグラスを片手にタバコを吸っていた。
「お、星野さんお疲れ〜。あがり?」
「あ、はい。杉崎さんは?」
「俺は休憩だよ〜。俺今日ラストだもん。いや、しんどいよな〜。今日のディナー、二百人は入ってるんじゃね?」
 杉崎は専門学校生で、二十一歳である。なんだか、美紀にとっては凄く年上の人に感じてしまう。
「そうですね〜、もう、へとへとです」
 笑って答えると、美紀は疲れた体を何とか動かして、着替えることにした。控え室の奥に、カーテンで仕切られた着替え場所がある。
 制服を脱いでいると、誰かが控え室を開ける音がした。
「お疲れちゃん〜」
 そんなふうにふざけて言った声は、小田のものだった。
「お疲れちゃん。何もう、上がり?」
 杉崎もそれに返す。
「いや、トイレ。でもあと30分であがれますけど」
 小田は言って、控え室のトイレの扉を開ける。美紀が着替え終えて、カーテンの中から顔を出すと、小田が微笑んでくれた。
「あ、美紀ちゃんお疲れ」
「小田君も、お疲れ様」
 美紀が言うと、小田は軽く手をあげてトイレの中に入っていった。美紀はパイプ椅子に腰を下ろして、一息つく。携帯を取り出して、それを見つめた。
メールや着信は、なかった。
「星野さんって、ホント可愛いよねえ。しかも高校生だし。いいなあ、若くて」
 突然言われた美紀は目を点にして、杉崎の顔を見つめた。
 杉崎は、にやにやと笑ってこちらを見ている。美紀は思わず赤面して、急いで立ち上がった。なんだか、この人は苦手である。美紀の周りには、あまりいない人だ。
「……ちょっと、杉崎さん、止めてくださいよ? 美紀ちゃんに変なちょっかい出すのは」
 そう言ったのは、トイレから出てきた小田だった。
 小田は、杉崎が女関係にだらしないことを、知っている。
「美紀ちゃんには、彼氏いるし」
「知ってるよ? 三月隼人だろ? 前にライブハウスで見たことある。有名だもんな、あいつ」
 ライブハウス……。
 美紀は昔のことを思い出して、少し胸をドキドキさせた。まだ付き合う前に、三月と二人で行ったことがある。
「あ、杉崎さん、知ってんだ」
「話したことはないけどな。……おっと、やべえ。休憩終わりだ」
 杉崎は慌てて立ち上がった。外していた調理帽をかぶって、身なりを整える。
「じゃ、星野さんお疲れ」
「あ、頑張ってください」
 杉崎が控え室から出て行くのを見送って、二人はなんとなく顔を見合わせた。
「じゃあ、気をつけて帰ってね。宮沢さんや杉崎さんのことは、気にしなくていいから」
 小田はそう言って、やはり控え室から出て行った。


 美紀は店から出て少しだけ歩いたところで、ふと思い出して携帯を取り出した。今日はバイトですっかり疲れ、しかも有里にきつく当たられたこともあって、気分が落ち込んでいる。少しでも、三月の声を聞きたいと思った。
 しかも今彼は、地元に帰ってきているのだ。
 美紀はすぐ近くのガードレールに腰を下ろすと、通話ボタンを押す。呼び出し音が十回ほど鳴った後で、ようやく三月が出てくれた。
『もしもし。……美紀、バイト終わったの?』
「あ、はい」
『お疲れ様。気をつけて家まで帰って、ゆっくり休んでね。明日は朝早くから、出かけるんだし』
 三月の落ち着いた声を聞いて、少し嬉しくなった。
 しょぼくれた気分を、少しでも回復させてくれる。けれどそのせいで余計、一秒でも早く会いたいという気持ちが高まってしまう。
「先輩の方は、どんな感じですか?」
『……ああ、今、友達と会ってるよ』
「そう、なんですか。じゃあこれから、会えたりとか、出来ませんよね」
『う、ん。そうだね。ごめんね』
 謝られてしまったら、それ以上我が侭を言うことも出来なかった。
「……じゃあ、明日、楽しみにしてます 」
 明日は、二人でドライブしてアウトレットモールへ行く予定になっていた。朝に、三月が車で迎えに来てくれることになっている。
『うん、本当に今日は気をつけて帰ってね。もう遅いし。終バスにも気をつけて』
「あ、はい」
『じゃあ、明日』
 そうして、電話は切れた。美紀は通話の切れた携帯を見つめて、少しため息をついた。




index/back/next