33.

 携帯の時計は、21:20を示していた。終バスは21時57分だから、時間には少し余裕があった。店からバス停までは、ほんの15分ほどである。
 そういえば、店から出てくる前に水を飲んでくるのを忘れていた。バイトを終えた後は、凄く喉が渇いている。美紀はスターバックスに寄ってから帰ることにした。スターバックスは若葉通りにあるから、少し遠回りだけれど、十分間に合う。
 自動販売機もあるけれど、美紀は最近、ホイップクリームの乗ったカフェモカにはまっているのだ。
 若葉通りを歩けば、少しだけ人通りが少なくなっているものの、まだまだ賑わっていた。お酒に酔った人たちや、服装が派手な若者たちがいる。道の脇で音楽を流し、ダンスの練習をしている人たちもいた。
 スターバックスは、若葉通りに面している。
 若葉通りに面した壁はガラス張りになっていて、店内を見渡すことが出来た。
 こんな時間なのに、店内にはけっこう人が入っている。とはいえ、美紀は買って帰るだけだから、気にすることもない。
 改めて携帯で時計を確認すれば、まだ30分を少し過ぎたばかりであった。
 美紀はほっとして、顔を上げる。
 店内に入ろうとして、視線を移したその端に、見覚えのある顔が一瞬だけ見えた。
(……え?)
 美紀は驚いて、ガラス越しにその姿を確認する。
 店の一番奥、隅のテーブルに、腰掛けているその横顔が見える。
 遠いけれども、分からないわけがない。それは、さっき声を聞いた、美紀の大好きな人の顔である。
 美紀はぱっと破顔させたが、その後すぐに、顔を曇らせた。
 三月の目の前に座っていたのは、可愛らしい女の人だった。可愛いけれど、確実に美紀よりも大人びている。
 髪の長さはショートで、両耳に髪をかけていた。笑いながらふざけて手を振り上げた、その手首は、本当に細くて華奢だった。
 そして三月も、楽しそうに笑っている。彼女が振り上げた手を避けるように、腕をかざしながら。その表情は、自分の前でも見せたことがあるだろうか。
 美紀は、慌てて踵を返すと、小走りに店の前から離れた。
 心の中に湧き上がる疑念を、慌てて打ち払う。三月は、友達だと言った。そして、三月だって女友達くらい、いるだろう。
 でも。
 そう分かっていても、嫉妬せずにはいられなかった。
 バイトで疲れ果てて、きついこと言われて落ち込んで、さらに三月にも会えないといわれて……。
 それで、なんでこんな光景を見る羽目になるんだろう。
 美紀はうつむいて、足早に若葉通りを通り抜けた。それが、バス停とは逆方向だとは、気がつかなかった。帰ることも終バスのこともすっかり頭から抜け落ち、先ほどの光景がこびりついて離れなかった。
 結局いつものように、若葉公園にたどり着いてしまった。
 なんだか、成長がないな、と自分でも自覚してしまった。そうやって自覚できる分だけ、少しは冷静を取り戻せた。
 美紀は噴水を見上げて、ため息をつく。
 急いで帰らなくちゃ、時間がない。そう思って公園の時計を確認して、息を呑んだ。もう、50分を示していた。あと7分で、バス停までたどり着けるだろうか。
 美紀は青くなって、駆け出した。
 急がなくては、間に合わない。普通の人ならば走れば間にあうのだろうけど、鈍足の美紀には自信がなかった。
 案の定少しだけ走っただけで息が切れてしまう。
 更に前の方にスターバックスが見えてきて、余計に足取りが鈍くなってしまった。しかも、ガラス張り。さっきは、三月の方が自分に気がつくことはなかったが、今度は分からない。正直、店の前を通り過ぎるのが嫌だった。けれど、遠回りをしている時間はない。
 美紀は、意を決して一歩を踏み出した。
「……あれ、美紀ちゃん?」
 キッと、甲高い音が響いた。
 若葉通りの内側の方で、自転車にまたがった小田が驚いた顔で美紀を見ていた。
「どうしたの、こんなところで。帰ったんじゃなかったの?」
「あ、えっと……」
「ん?」
 小田は美紀の様子がおかしいのに気がついて、首を傾げた。
 美紀の足は完全に止まったまま、動こうとしない。
 小田は何気なく、スターバックスの方に視線を向けた。先ほどから、美紀がちらちらと視線を送っていたからだ。
「……え。久島さん?」
 小田が小さな声でそう言ったのを、美紀は聞き逃さなかった。
 と、そこに店内から人が出てきて、美紀はびくりと振り返る。
 それは、スーツ姿の男性で、美紀はほっと息をつく。けれど、店内からは数人続けて人が出てきて、それで、閉店が近いからだと気がついた。
 美紀は、慌ててその場から逃げ出した。
 今、三月と会うわけにはいかなかった。今会えば自分が、何を言ってしまうか分からない。
「あ、美紀ちゃんっ」
 小田は慌てて、自転車を降りた。そのまま脇に駐輪して、美紀の後を追う。美紀は若葉通りから路地に入り、より暗い方へと足を踏み入れた。
「美紀ちゃん、待ってって」
 小田はすぐに美紀に追いつき、その腕を掴んだ。美紀は反射的に身をよじる。その際に、美紀の手の甲が小田の頬に当たってしまい、鈍い音が響いた。
「いって」
「……ご、ごめん」
 小田の声で、我に返った。頬を押さえた小田を覗き込み、その様子を伺う。
「ごめんね、小田君。大丈夫?」
「うん、平気」
 小田はパッと笑顔を見せて、今度はしっかりと美紀の手首を捕まえた。
「これでもう、逃げれないから」
「お、小田君……」
 美紀は赤面して、うつむいた。
 そんな美紀の様子を見て、小田の表情から笑みが消える。美紀の手首を掴んだのと反対の手を後頭部に持っていってしばし悩むと、そのまま歩き出した。
「え、ちょっと小田君?」
「……美紀ちゃん、もうバス間に合わないでしょ? あとで送っていくから、とりあえず、どっか落ち着けるところまで行こ」
 美紀は手首を掴まれたままだったので、大人しく小田に従って歩くしかなかった。
 二人はそのまま、美紀が先ほど行き当たった若葉公園までたどり着く。空いていたベンチに腰を下ろして、しばらく、二人とも黙り込んだ。どういうふうに切り出せばいいのか、分からなかった。
 ……けれど、美紀には、小田にちゃんと聞かなければならないことがあった。
 そして小田もそれを分かっているからこそ、こうして、話せる場所までつれてきてくれたのだろう。
 美紀は、深く息を吸い込んで、口を開いた。
「小田君。……さっき先輩が一緒にいたのは、久島亜矢子さんだったの?」




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