34.

「じゃあ俺、そっちの売店適当に見てるから」
 サービスエリアのお手洗いの前で、美紀にそう言ってから、三月は踵を返した。
 美紀はその姿を見送った後、中に入る。大きくて、綺麗なお手洗いだった。用を足した後洗面所で手を洗い、ついでに髪の毛を整える。少してかりだした鼻の頭を油取り紙で押さえ、改めて顔の様子を確認した。
 今日は、ちゃんと笑えているだろうか。ぎこちなくなっていなければいいけれど。
 昨日は、小田に自転車で送ってもらった。家にたどり着いたのは、23時頃で、部屋に戻ればその向かいの部屋から兄将行が顔を出した。
 終バスに乗り遅れたから、小田に送ってもらったと説明すれば、ふうんと言って顔を引っ込めた将行。兄という立場上、少しでも心配してくれているのだろうか。
 その割には、メールも何もなかったけれど。


「久島さんが、退院したっていう話は知ってたんだよね」
 小田はそう説明した。
 久島亜矢子。二年の終わりごろまで付き合っていた、三月の元カノである。彼女は劇症肝炎を発症して入院していたが、去年の九月頃、肝臓移植のために渡米した。
 美紀は、それ以上のことを知らない。
 美紀自身、そのことを話題にし難かったし、三月も話に出すことはなかったからだ。
「アメリカから日本に帰ってきたのはつい最近のことらしくてさ。一応念のためこっちの病院にも入院したらしいんだけど、すぐに通院に切り替えたって」
 その話を聞いたときは、「良かった……」というつぶやきがもれたように、美紀は心底からほっとした。亜矢子の病気が治り、健康が戻ったことは、本当に喜ばしいことだと思った。
 亜矢子のことは、美紀の心の中でも、大きなわだかまりとなっていた。
 二人が別れたのは、おそらく、この病気のせいだったからだ。決して、お互いを嫌いになって別れたわけではなかっただろう。だからこそ、美紀は迷った。ずっと片思いをしていた三月から付き合ってほしいと言われても、簡単には頷けなかった理由がここにあった。
 けれども兄や久美子からの後押しもあり、自分の気持ちに正直になって、付き合うことにした。でもだからといって、亜矢子の存在を忘れられるはずもなかった。
「三月が久島さんと会うのは、まあ、当たり前といえば当たり前だよね。一応元カノだったわけだし。元気になったのを確認したいっていうのもあっただろうしさ。……ん〜、だから、そんなに気にすることはないと思うけど」
 小田は最初、三月をかばう形で、そんなふうに言った。
 そうだよね、と笑う美紀に、少し気を使いながらも。
 でも、小田にそういわれても、簡単には納得出来なかった。なら、なぜ三月は、自分に何も言わないのだろう。
 確かに今は、三月にとって亜矢子は友達なのだろう。そういう存在であると、美紀は信じたい。けれども、ならば自分に予め言っておいて欲しかった。
 なぜこんなふうに、美紀に内緒で亜矢子と会うのだろう。
 それは少しでも、三月の中で、後ろめたい気持ちがあったからではないだろうか。
 小田は、黙り込んでしまった美紀に、何も言おうとしなかった。小田は小田で、何かを考えているようだった。
 それでも、しばしして、小田は立ち上がった。
「もう遅いから、今日は帰ったほうがいいよ。明日三月とデートするんでしょ? そんときに、三月に聞いた方がいいよ」
 そう言われたときは、正直、美紀は落ち込んだ。
 もう少し、小田に優しい言葉をかけてもらいたかったから。でも、そんなものは自分勝手な要求だったし、自分が悲劇のヒロインぶっていることにも気がついて、落胆した。


「何見てるんですか〜?」
 美紀が後ろから声をかければ、三月は少し笑って振り返った。
「美紀、これ欲しい?」
「あ〜〜、キティだ! 欲しい!」
 美紀は三月の持っているストラップを見て、歓喜の声を上げた。
 それは、地域限定のキティストラップで、可愛いもの好きな女の子だったら誰でも欲しがるアイテムである。
「お土産に何個か買っていくから、美紀にも買ってあげるよ」
「え、ホントですかあ? やった〜。あ、私も久美子たちに買っていってあげよ〜」
 それは、同じ県でも違うものがいくつかあって、美紀はそれぞれ別のデザインのものを、久美子と菜緒子、理佳に買っていくことにした。
 ふと、小田の顔も浮かび、いつもお世話になっているお礼に何かを買って帰りたくなった。けれどキティでは喜ばれないだろう。それで、なんとなく、三月に聞いてみた。
「これって、男の子が貰っても嬉しくないですよねえ」
「え?」
 一瞬、三月が返答に詰まった。美紀は何気なく聞いただけだったので、その原因がすぐには分からなかった。
「美紀には、お土産あげたい男がいるんだ」
 三月はあからさまに落胆したような口調でそう言った。そこで、あっと気がつき、慌てて弁解する。
「え、っていうか、ただ何となく……」
 全く弁解になっていない。三月はそんな美紀をみて、ぷっと笑った。
「うそうそ。別にいいんじゃない? 美紀から貰える男は、何だって喜ぶよ。……まあ俺も、女友達にあげるわけだし」
 三月はそう言って、レジに向かった。
 美紀はその言葉で、ふと、立ち止まってしまう。
 女友達、それは、亜矢子も入るのだろうか。というか、むしろ亜矢子のために買っていくのではないか。美紀はそんなふうに考えて、少ししょんぼりした。
 そんな様子の美紀を振り返って、三月は笑って近寄ってくる。
「いや、頼まれただけだから。本当に、ただの大学の友達。集めてるから買って来いって、お金も渡されてるから」
「あ、うん」
 美紀は無理やり笑みを作ると、自分もレジに向かった。
 こんなことでいちいち勘ぐってしまう自分が嫌だった。
「じゃあ、これ。包装とか特別感なくて、申し訳ないけど」
 車に戻って乗り込んだ後、三月が美紀に、土産用の袋に入ったストラップを差し出してくる。
「え、そんなの全然いいです。ありがとうございます!」
 美紀は三月の手からそのストラップを受け取って、早速携帯につけた。何個かすでについているストラップのうちの、一つになる。
 三月の携帯にはシンプルな皮のストラップが一本ついているだけだ。前に聞いたら、アッシュ・マレというブランドらしい。皮のストラップにHの文字のシルバーが装飾されている。
 三月はいつも、美紀が知らないこだわりの品を身につけていた。
「じゃあ、出るよ」
 美紀の満足そうな表情を見てから、三月はアクセルを踏み、車を発進させた。目的地までは、あと少し。




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