35.

「美紀。……美紀?」
 三月に二度も呼ばれて、美紀はハッと我に返った。
 いけない。また、考え事をしてしまった。
「疲れた?」
 三月が飲み物を差し出しながら、やや心配そうにこちらを覗き込む。
「あ、ううん。全然平気」
 美紀は笑ってそれを否定した。礼を言って、飲み物を受け取る。
 アウトレットモールに到着して、一通り見て回った。雑貨を見たり、服を試着したりと、買い物はとても楽しかった。
 今は、モール内のベンチに腰掛けて、一休みしていたところである。三月が飲み物を買ってくると言い、それを待っていたところだった。
「何か、今日の美紀ちょっとおかしいよね。車に乗ってるときも、ずっと黙り込んでたし。まあ、ボーっとするのはいつものことかもしれないけど」
「あ、ひど〜い」
 三月のふざけ半分の指摘に、美紀はおどけながらもちょっと、ドキッとした。図星だったからである。どうも、昨日のことがちらついて、心から楽しめなかった。
 小田には、三月本人に聞けと言われてるけれど、なかなか切り出せない。そもそも、なんて切り出せばいいんだろう。
 三月は美紀の隣に腰掛けると、飲み物を口に運んだ。美紀もそれに習う。トロピカルフルーツの生ジュースで、とても美味しかった。
「なんか、悩み事?」
 三月は、前を向いたまま、そんなふうに聞いてきた。
 美紀は、なんて答えればいいのか分からなかった。正直に、昨日目撃したことが気になっている、なんて言えるわけがない。けれど、何でもないと言うのも不自然な気がして、思いついたことを口にした。
「あ、えっと進路のことで」
 進路の悩みがあるのは事実である。
「ああ、そっか。もう希望調査する時期だよね。美紀は、将来何したいの?」
「えっと、児童福祉とか興味があって」
「……へえ、なんか、美紀らしい」
 三月は穏やかに笑って、頷いた。
 三月には以前、美紀の生い立ちを、多少話したことがあった。
「うん。本当は先輩と同じ大学に行きたいんだけど……」
「ああ、うちには福祉系はないね」
「で、なるべく近いところを探してるんだけど、なかなか無いんだあ。……松井先生には、不純な動機で決めるなって言われた〜。かなり見抜かれてるって感じ」
 言えば、三月は声を上げて笑った。
「そりゃ、そうだろうな。あの人、生徒の恋愛事情に興味津々だから。楽しんでるんだよ」
「え〜? そうだったの〜?」
「でもまあ、確かに進路の幅をそんな理由で狭めない方がいいとは思うけどね」
 そんな理由で。
 三月の言葉に、美紀は少しショックを受けた。
「先輩は、私とこのまま遠距離恋愛を続けても、平気なんだ……」
 少し、嫌味っぽい言い方になってしまった。
 三月は、黙っている。本当は、すぐにでも否定して欲しかった。自分も、美紀の近くにいたいのだと、言って欲しかったのだけど。
「美紀、本当にそういう考え方はしない方がいいよ。やっぱ恋愛よりも、本当に自分が勉強したいことを優先した方がいい」
 望んだ言葉が返ってくるどころか、更に念押しされてしまった。
 美紀は、三月の言葉に段々イライラしてくる。
 自分ばかりが、三月を望んでいるように思えた。
 三月は、自分と会えなくても、平気なのだろうか。三月の中で、自分との恋愛は、どのくらいの優先順位になっているのだろう。
 きっと、勉強や友達付き合いよりも、下なんだ。だから、自分と会えなくても平気だし、一緒の部屋に泊まっても何もする気が起きないし、元カノに会うことも内緒にするし、三月の傍に行きたいという気持ちに、「そういう考え方はするな」なんて言えるのだ。
 そういえば三月だって、遠距離恋愛になると分かっていて、今の大学を選んだのだ。自分は、三月の傍に行けるような進路を考えているのに。
 付き合いだしてからだって、最初の頃は三月の受験を考えてデートはほとんどしなかった。受験が決まってからも、バイトを始めたせいで、やはりあんまり遊べなかったと思う。
 ……そうして、美紀の心の中は、今まで積み重なっていた不満の気持ちで一杯になってしまった。
 不満が一杯になると同時に、自分がすごく、惨めに感じた。
 きっと、三月にとっては、自分との恋愛なんて大したことではないのだ。今までだって色んな恋愛をしてきただろうし、すごく余裕があるように感じる。
 その一方で、自分には、全く余裕がない。
 自分の頭の中のほとんどは、三月との恋愛が占めているし、それでいいと思っていた。そして、三月も、自分と同じ気持ちでいて欲しかった。
 そんなわけは、無いのに。
「どうせ、どうせ先輩は……。私のこと、そんなに好きじゃないんでしょ……?」
 口に出して言ったら、本当に悲しくなって、涙が出てきた。
 本当は、ずっと、そんな不安が満ちていた。けれど、無意識に、そんなことを思わないようにしてきたのだ。
 でも、そういうふうに思わざるを得ない。
 三月の態度や言葉から、そういう結論が出てしまうのだ。
「美紀……」
 戸惑い含みに名を呼ぶ三月の表情がどんなものだったのか、美紀には確認出来なかった。一度あふれた涙は、なかなか止まってくれそうにない。
 こんな人ごみの中で突然泣かれて、三月は困っていることだろう。
 美紀は顔を両手で覆って、なんとか声だけは抑えながら、泣いた。やがて、三月が自分の肩を抱き寄せて、「ごめん」と呟いてからも、しばらく涙は止まらなかった。
 そうやってしばし泣いていた美紀の涙が収まってきた頃、三月は美紀を促して、歩き出した。涙にぬれた美紀を抱きこむようにして、歩く。美紀はそんな様子が恥ずかしくて、ずっと俯いたまま歩いた。
 三月はそうして、駐車場の車まで美紀を連れてきた。
 車の鍵を開けると、後部座席に美紀を乗せ、自分もその隣に座った。
「美紀、平気?」
「……あ、うん。ごめん、なさい」
 三月は美紀の顔を覗き込むと、両手で美紀の頬を包み込みこんだ。美紀は、涙でぐじょぐじょになった顔を見られるのが嫌で、身をよじってその手から逃れる。
 三月は手から逃げた美紀を、今度は全身で抱きしめた。
「美紀は、ずっとそんなふうに思ってた? 俺が、美紀のことそんなに好きじゃないって」
 三月の口調は、少し、怒っているような感じだった。
 実際、怒っているのかもしれない。突然泣き出して、恥をかかせた自分に。
 美紀は、答えられなかった。でもそれが、肯定となっていた。




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