39.

「それで、あんたの気持ちはどうなの?」
 久美子は、携帯を頬と肩の間に挟んだ状態で、美紀の話を聞いている。
 とある居酒屋の、化粧室。
 バッグの中から化粧ポーチを取り出すと、メンソレータム・リップを取り出して、唇に塗った。
 元々色付きのリップを塗っていたが、飲食したせいですっかり取れてしまっている。
『え〜、だからあ……小田君はすっごく優しくて、色々心配してくれるのが嬉しいんだけど……やっぱり三月先輩のこと、好きだし』
「じゃあ、悩む必要ないじゃん。さっさと誤解を解いて仲直りしなよ〜」
 久美子は、美紀の話を一通り聞いて、単なるのろけの延長だと判断した。
 三月はただ単にやきもちを焼いただけだろうし、ならばそれは、美紀のことを本当に好きなのだという証拠だと思った。
 それよりも今回の問題は、美紀の方にあると言っても良い。
 美紀の心が揺らいだのだ。
 三月との間には、距離がある。そのせいで、デート出来る回数は本当に少なく、寂しいときに会えないこともあるだろう。表情を見て離せないし、スキンシップもないから、お互いの感情を理解しにくいこともある。
 一方小田は近いところにいる。美紀と気軽に食事にもいけるし、何かあったときにはすぐに助けてもやれる。もし二人が意識しあえば、恋愛関係を作ることは簡単だ。
『三月先輩、許してくれるかなあ』
「そのくらいのことを許せないような男なら、こっちから振ってあげなさい」
『うわ、久美子、厳しいね』
「当然だよ。つうか、三月先輩はそんな器の小さい男じゃないと思うけどね。……でも、先輩もやきもち焼くんだねえ。ちょっと意外」
 久美子はそう言って、ちょっとだけ笑う。
 と、そこへ他の人が化粧室に入ってきて、久美子は軽く会釈しながらすれ違った。迷惑かと思い、化粧室から出る。
 とたん、店内の喧騒に包まれた。
「とにかく、明日には仲直りしな? じゃあ、もう切るからね」
『あ、うん。うわ、十五分も話しちゃった。本当にごめんね。でかけてたんでしょ?』
「ああ、別にいいよ。なんかまったりしてたとこだし。んじゃ、またね」
 そう言って、久美子は電話を切った。バッグの中に携帯を放り込むと、自分の席の方へ足を向ける。
 戻れば、一緒に来ていた男が退屈そうにタバコを吸っていた。久美子が戻ったのを見て、意味もなく乾杯のようにジョッキを持ち上げる。久美子は苦笑して、靴を脱ぐと座敷へ上がった。
「なんだって? 星野さん」
「ん〜、なんか、三月先輩とケンカしたみたいよ? 考えてみれば初ケンカだねえ」
 久美子は砕けた物言いで、正面の男にそう説明する。
 彼は、短めに切りそろえた髪の毛をアッシュブラウンに染め、緑色のフレームの眼鏡をかけていた。服装もカジュアルに着重ねし、おしゃれの上級者と伺える。
 容貌は完全な二枚目とは言いがたい。言うなれば、惜しい顔立ちをしていた。けれど、眼鏡をかけているせいで、そこそこの好男子に見える。
「へえ。案外三月も子供だからなあ」
「……そういう安部さんは大人なの?」
 そう尋ねれば、彼は肩をすくめるだけで、肯定も否定もしなかった。
 久美子の目の前に座っている男は、安部拓也。先月のスノーボード旅行で初めて知り合い、携帯番号とメールアドレスを交換した。
 それでも、今日までにやり取りした回数は、多いほうではない。電話は一回だけで、メールが五回ほど。
 最初にメールを送ってきたのは、安部だった。スノーボードから帰ってきて、その数日後くらいのことだった。そのときは、特別印象に残るような内容ではなかったと思う。その後はしばらくメールはなかった。
 ところが数日前に、突然ゴールデンウィークに会おうというメールが入った。なんとなく興味を抱いて、承諾のメールを送ったら、電話がかかってきた。
 そのときの電話で意外に会話が弾んで、三時間も喋ってしまった。
 けれどそれで、二人はかなり親しくなった。お互いにフィーリングが合ったのかもしれない。
「三月先輩とは、どのくらいの付き合いになんの?」
「高二のとき、一緒のクラスになってから。三年もそのまま持ち上がって、同じクラスだったしな」
「へえ。けっこう仲良いもんねえ」
「だな。まあ、一緒にいてラクっていうか、気兼ねしないっていうか」
「しかも大学同じだしね。……それはなに、二人で一緒の大学に行こうぜ〜、みたいな?」
 久美子がからかって言えば、安部は苦笑して否定した。
「まさか。そもそも俺は、三月より先にS大に決めてたし。あいつ、途中から進路変えたんだよ。学部をさ、元々理工学志望だったのを医学に変えやがって。まあ、理工学のままだったらW大のつもりだったんだろうけど、医学部ってことで大学自体のランクは落としたんだろ? そんでも大したもんだよな。で、その結果たまたま一緒になった、と」
「安部さんは、なんでS大にしたの? こっちの小田先輩と同じとこだって、工学部あるじゃん?」
「ん〜、でもまあ、あそこよかS大の方がランク上よ? 俺はまあ家から出たかったし、国立大で俺の頭に見合うところが、たまたまS大だったわけ。……綾部さんは、志望どこで出したの?」
「う〜ん、第一志望は県大の薬学なんだけど、ちょっと無理そうなんで都内の私立にするかも」
「へえ、薬学か。なんか綾部さんぽいわ」
 安部はそう言ってタバコをもみ消すと、ジョッキの中に余っていたビールを飲み干した。久美子の注文したモスコミュールの入ったグラスは、電話に立つ前にすでに、なくなっていた。
「……さて、どうする? もう一杯くらい呑む?」
 安部は腕時計で時間を確認しながら、尋ねた。時計の針は九時半を示している。
「綾部さん、何時まで平気?」
「ん〜、まあ、何時でも……」
 久美子は笑みを浮かべつつ、曖昧に答えた。互いに互いの反応を伺っているような、そんなやり取りである。
「ああ、じゃあ、もっと呑むか。綾部さん全然酔っていないでしょ?」
 安部も笑いながらそういうと、メニューを広げつつ店員に声をかけた。




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