40.

「じゃあ、ちょっと待ってて」
 将行は、家の前で車を停車させた三月にそう言い置くと、小走りに玄関へ向かった。路面に向けて窓のある美紀の部屋には、電気がついていた。まだ、起きているのだ。
 現在の時刻は、十時過ぎ。
 お子ちゃまの美紀はもう、寝支度を済ませてしまっただろうか。
 将行は玄関をくぐり階段を二段飛ばしで駆け上がると、声をかけながら扉を開けた。ある程度文句を言われることは、覚悟をしつつ。


「わ、突然入ってこないでよ!」
 机に向かって日記を書いていた美紀は、突然の兄の侵入にバタバタとそれを閉じ、彼に文句を言った。将行は扉のノブに手をかけたまま、ニヤリと笑う。
「……まあた、日記書いてたんか。三月片思い日記」
「そ、そんな名前じゃありません」
 美紀が日記を書き始めたのは、高校に入ってからだ。三月に片思いを始めてから。だから、将行の指摘したとおり内容は三月への恋愛感情が中心だ。けれど、将行がそれを知っているなんて心外だ。まさか盗み見しているのではないだろうか。
 美紀はそんなふうに思って内心ドキドキしながら、顔をしかめて言い返した。
「それに、今は両思いだもん」
「へいへい、そうなんだろうな」
 将行はそう言うと、戸口に立って両腕を組むと美紀の姿をちょっとだけ眺めて、言った。
「とりあえず、お前すぐに着替えろ」
 美紀はもう、パジャマ姿である。お気に入りの、黄色のパジャマ。
「はあ? なんで〜?」
 お風呂にも入った後で、後は寝るだけの状態だった。実際、大分眠くなってきていたから、今から外へは出かけたくない。
 そもそも今日は、ちょっと疲れているのだ。昨晩は少し緊張していたのもあって、軽い寝不足になっていた。
 寝る前に一度、三月に電話をかける気ではいたけれど……
「……お前の両思いの相手が、外で待ってるからだよ」
 将行は、苦笑交じりにそう言った。言いながら窓の方を顎で指し示すので、美紀はいぶかしげに外を見る。
 窓の外、眼下には、一台の車がハザードを出して止まっていた。
「え!?」
 夜だからイマイチ確証はなかったけれど、それは美紀が昼間乗せて貰った三月の車と、同じ形をしていた。
「え、もしかして、先輩が来てるのっ? どうして?」
「そりゃ、お前に会いに来たんだろうが。とにかく行って来いよ。お母さんには俺から、適当に言い訳しとくからさ。まあ、じっくりとな」
 将行はニヤニヤと言うと、美紀の部屋の扉を閉めた。
 深夜タクシーの運転手である母は、恐らく明け方には帰ってくるだろう。その母に言い訳をするというのだから……
 美紀は一瞬顔を上気させるが、すぐに身を翻した。クローゼットの中から適当に服を出し、パジャマを脱ぎ始める。適当に出した服を眺め……やはり、戻した。三月に会うのに、適当な服なんて着られない。
 美紀はビーズ刺繍が入ったカットソーを選ぶと、その下に水玉模様のプリーツスカートを合わせた。両方とも、お気に入りの服である。更にその上にデニムジャケットを羽織り、膝丈の靴下を履くと、鏡で頭からつま先まで確認してから部屋を出た。
 と、手に何も持っていないことを思い出し、再び部屋へ戻る。美紀は椅子の背もたれに引っ掛けてあったバッグを取ると、枕元に置いてあった携帯をその中に入れて、改めて部屋を出た。
 まさしく、バタバタしているという表現がピッタリの行動だ。
 美紀は急いで階段を下ると、普段から良く履いているミュールを引っ掛けて、玄関から飛び出た。
 車の中の三月がこちらに気づいて、軽く手を上げる。美紀は昼間のことを思い出し、何だか恥ずかしくなって俯きながら、その車に向かった。
 近付けば、三月は助手席を示す。美紀はそれに大人しく従った。
「お、お邪魔します」
 美紀はそんなふうに言って、車の助手席に乗り込んだ。急いだせいなのか、それとも緊張しているのか、動悸と息切れがする。それを何とか押さえつけて、恐る恐る視線を三月に送った。
「ごめんね。こんな遅くに、突然」
 三月は口の端にかすかに笑みを浮かべて、そう言った。
「え、ううん、全然平気。……むしろ、すごく嬉しいし」
 三月が穏やかな表情をしていたので、美紀はほっとした。
 昼間、美紀が彼を怒らせてしまったときのような、硬く冷たい表情ではない。
「あ、あの、先輩、ごめんなさい。私、なんて言ったらいいか……」
 何から話し始めればいいのか分からなかったが、何も言わずにいることもできなかった。早く、誤解を解かなければ。そして、仲直りするのだ。
「その話は、落ち着いてからにしよう? ちょっと、移動するから」
 美紀がなかなか話を続けられずにいると、三月はそう提案して美紀の言葉を遮った。車を発進させ、黙ったまま運転を続ける。美紀は三月にばれないように、そっと深く息を吐き出すと、大人しく前を向いた。
「あ、シートベルトしてね」
 言われて、慌てて思い出す。わたわたとシートベルトを引っ張ると、おぼつかない手つきで受け入れ口に差し込んだ。
「……今まで、何してたの?」
「え? え〜と、お風呂に入ったり……」
 さすがに恥ずかしくて、日記を書いてたとは言えない。
「先輩は?」
「あ〜、俺はちょっと星野と喋ってた」
「……あ、ていうか。お兄ちゃんが外行ったのは知ってたけど、先輩と会ってたなんて知らなかった〜。どうせ私の悪口言ってたんでしょ〜?」
 兄は自分が落ち込むたびに、「間抜けな子狸」と言ってからかうのだ。どうせ今回もそんなことを言っていたに違いない。
「さあ、どうかな」
 三月は笑って、否定も肯定もしない。やっぱり、そうなのだ。
 美紀は怒ったふりをしながら、けれど今三月と話せていることが、本当に嬉しかった。アウトレットから帰ってくる間は、一言も喋らなかった。その沈黙の時間が、とても辛くて苦しくて、悲しかった。
 三月と話が出来るだけでこんなに嬉しいなんて、今までこんな感情を忘れていたのかもしれない。美紀は何だか心が軽くなって、表情にも無意識のうちに笑みが浮かんでいた。
 外や車中が暗いので、あんまりはっきりとは見えないけれど、三月の方をそっと伺う。三月は運転に集中している。たまに、サイドミラーやバックミラーを確認しているのが、分かる。
 そんなふうにじっと三月を観察していたら、本人は軽く吹き出すようにして、笑った。
「なんか、そんなふうに見られてると緊張するんだけど。……ただでさえ、初心者なのに」
「あ、ご、ごめんね……でも先輩の運転、すっごく慣れてる感じ」
「まあ、向こうでは毎日乗ってるからね。でもやっぱ、人を乗せると緊張するね。美紀が乗ってるから尚更、安全運転を心がけてます」
 三月がちらりと視線を寄越して軽く会釈をするので、美紀は何だかおかしくなって、声に出して笑ってしまった。
「ところで、どこに向かってるの?」
 三月の運転には迷いがなかった。どこか、目的地が決まっているのだろう。
 美紀はあんまり道に詳しくないけれども、市街には向かっていないようだった。
「それは着いてからのお楽しみということで」
 三月は笑いながら、そんなふうに言った。




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