42.

 薄暗いホテルの室内は静まりかえり、冷蔵庫の動作音だけがわずかに耳に届いていた。
 美紀は三月の反応に戸惑い、その表情を確かめるために彼の顔を覗き込んだ。うつむいた彼の顔には、すでに何の表情も浮かべられていない。
 なんて声をかけたらいいのか分からず美紀が迷っていると、三月が口を開いた。
「やっぱり美紀は、すごいな……」
 三月は大きくため息をつくと、形ばかりの笑みを浮かべて、美紀の体を引き寄せる。
 美紀はドギマギしつつも、三月の腕の中に大人しく納まった。いつもの余裕ある三月とは違う。いったいどうしたのだろう。自分が何か、変なことを言ってしまったのだろうか。
「俺は、そんなふうに素直には考えられないから」
 耳元で、三月の声が静かに響く。首元に吐息まで感じる。三月の匂い、体温、鼓動。全てがいとおしい。
 美紀は三月の胸に自分の頭を預けると、瞳を閉じた。
「素直に考えられないって、どういうこと?」
 瞳を閉じたまま、三月の言葉を促す。
 三月が何を言おうと、美紀は全てを受け入れようと思った。三月が自分を抱きしめてくれていること、それだけで、美紀の心は満たされていた。
「……俺は、本当の意味で、美紀を信じていなかった」
 三月は淡々とした口調で、そう言った。
 信じて、いなかった。
「私を? それは、どういう……?」
 美紀は目を開くと少しだけ身じろぎした。けれど、三月の腕の中では自由に体を動かすことが出来なかった。三月の手は美紀の頭をしっかりと抱きかかえていたから、顔を上げることすら出来ない。
「人と人とのつながりなんて、所詮は希薄なものだから。どんなに好きだって言ったとしても、それがずっと続くわけじゃない。人の気持ちは変わってく。高まった気持ちは、すぐに冷める。……だったら、最初からそんな気持ちは持たない方がいい。冷めた姿勢でいれば、わずらわしいことはない」
 美紀は三月の独白を、固まったまま聞いていた。すぐには、理解できなかった。いつもは柔らかく穏やかな三月の声が、今は硬く強張っていた。
 美紀は、恐る恐る自分の腕を三月の背中に回した。少し、不安な気持ちになった。
「面倒な恋愛なんてしたくなかったから、遊べる女だけを選んだ。少しだけ交わってすぐに距離を置く。人を好きになるっていう気持ちがどんなものか、忘れたような気がしてた」
 ……亜矢子と、出会うまでは。
 三月は、ため息交じりにそう言った。
「久島さんとは、いつ知り合ったの?」
「亜矢子とは、二年のとき同じクラスだったんだ。付き合い始めたのは、学祭の前だったから五月中旬だったかな……」
 それから、二年の終わりまで。約十ヶ月の付き合い。
「久島さんのおかげで、先輩の考え方とか、変わったんだよね」
 美紀の中での久島亜矢子は、まるで聖人君子のように完璧な人間だった。美人で性格も良く、荒んだ三月の心を癒す力を持った人。だからこそ、自分が彼女に太刀打ちできるとは思えなかった。まるで自信を持てない。
「亜矢子は気が強かったし、自信もあった。何より、彼女は正しかったから。言葉も行動も、ね。……そういう意味で半端な付き合い方は出来なかったのかも」
 気が強い、というのは少し意外な気がした。美紀の想像では、優しくて穏やかな人だと思っていたから。イメージを、少し修正する必要があるかもしれない。
 けれど、そんな気の強い亜矢子は病気にかかって、三月に別れを告げた。それは、彼女の強さだったのだろうか、弱さだったのだろうか。
「亜矢子から別れを切り出されたとき、俺は正直、裏切られたような心地がした」
 三月は言って、ますます強く美紀を抱きしめた。
 それはまるで、痛みや恐怖を堪える子供のようだった。
 亜矢子に裏切られたと言う、三月。
 けれど亜矢子だって、病気のせいで仕方なく別れたのだ。きっと本心から別れたかったのではないはず。それは、三月だって分かっているはずだ。
 美紀と三月が付き合う前、彼は今よりもはるかに冷静に、そのことについて語った。自分は別れたくなかったけれど、亜矢子はもっと辛いのだと。ここで別れたくない、というのは自分の我侭にしかならない、と。
 三月はそれを、ちゃんと受け止めているのだと、思っていた。けれども本当は、納得出来ていなかったということか。
「裏切られたって……でも、久島さんは別れたくって別れたわけじゃ……」
「別れたくないなら、別れなければいい。亜矢子は一方的に俺を振ったんだ。病気のことも黙ってた。俺は結局、亜矢子から全く信用されていなかった」
「そんなこと……」
 美紀は、反射的に三月の体を押しのけた。力いっぱいその胸元を押して身を離せば、ようやく三月の顔を見ることが出来た。三月の表情は、硬かった。悲しい顔でも、怒っている顔でもない。けれど、とても複雑そうな顔だ。
「なんで、そんなふうに思うの? そんなの……悲しい。私も前はそういうふうに、自分が駄目に思えて仕方なかった。それを変えてくれたのは、先輩なのに」
「……俺じゃ、ないよ。前も言ったけど、あれは亜矢子の受け売りだった」
「ならなんで、そんな良いこと言ってくれた久島さんのこと、信用できないの?」
「言うだけなら簡単ってことだろ」
 三月は突き放すように言い放って、沈黙した。美紀も、次の言葉が出ない。それで、しょんぼりと視線を下に落とした。
 ベージュ色の、キャンバス地のソファの上にぺたっと座り込んだ自分の足が見える。三月の足は、床に下ろされていた。美紀はそんな三月の腿に、そっと手を置く。
 その手を、三月の手が上から握り締めた。
「ごめん、こんな話をするはずじゃなかった。……まあ、そんなだから俺と亜矢子が上手く行くはずないよな。お互いに自尊心だけが強くて。本気で好きだと思った亜矢子とそんなことがあって……心のどこかで、やっぱり俺は美紀にも心を許せていなかったのかも」
「私のこと、信用できなかった?」
「美紀は素直でいい子だから。それに、今まで誰とも付き合ったことないんでしょ? だから余計に怖かった。小田みたいに美紀に好意的な男はいくらでもいるし、遠距離恋愛になれば美紀も他の男に気が移るかも知れない。……そんなことはないはずだっていう気持ちも、あったけどね」
「そんな……」
「まあ、予防線みたいなのを無意識に張っちゃってたのかもね」
 そういうふうに言う三月は、ようやく心の余裕を取り戻せたようだ。口の端に笑みが浮かんでいる。
「私のこと、試してたってこと〜?」
 わざと拗ねたような顔をして言えば、三月は笑った。
「試すとか。美紀、恋愛上達したんじゃない?」
「だって、自称恋愛上級者と付き合ってるもん」
「自称かよ」
 三月は興味深そうな顔で、美紀に突っ込みを入れる。美紀も、笑顔で言葉を続けた。
「そうだよ。だって、なんか分かっちゃったもん。先輩もなんだかんだ言って自信ないんでしょ? 遊びの恋愛ばっかしてたから、本当の恋愛が分からなくなっちゃって。だから、私が本当の恋愛を教えてあげるんだあ」
 誇らしげに言えば、三月はぶっと吹き出した。口元を押さえて、身をよじって笑いを抑えている。
「そこは笑うとこじゃない〜っ」
 美紀は顔を真っ赤にして、三月に抗議した。膝を立てて、上方から三月を叩くように手を振り上げれば、彼は身を守るようにして腕をかかげる。……顔は、笑ったまま。
 そんな場面が、ふと、昨日の光景と重なった。スターバックスで楽しそうに笑っていた、三月と亜矢子。
 美紀はふいに切ない思いに駆られて、そのまま三月に抱きついた。
 誰にも、渡したくない。
 そんな気分だった。




index/back/next