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いまの日本の首相の、A級戦犯、即ち敗戦にいたる戦争指導者達ないしは責任者をまつった靖国神社参拝の是非をめぐって、日本と近隣諸国との間の軋轢が差し迫り、容易ならぬ問題になっている。どちらかと言えば、むしろ相変わらずのんびりとA級戦犯を分祀した上で靖国神社に詣でる案や、首相公式参拝をやめる案などが関係者達のみならず広く世間で取り沙汰されているものの、他方では現状のままに首相はじめ国民は参拝し続けるべきであるという強硬な説もある。私の思うに、個人的信念もしくは信仰なら個人的にすればよいことであるが、どうしても天皇を皇居に仰ぎ祭政一致、神-社一致的日本国をとりしきる首相としてはそういうわけにいくわけがないであろう。総代的代表行為であり、象徴行為であるからである。しかし、どうしてもその表徴的意味の行為を続けたいならば外交的にばかりでなく、瞞まし狂(ダマ)らせられて没した英霊達の怨念を鎮めるためにも、瞞まし誑かしたもしくは国を誤り多くの無辜の民草を妄執の火に焼き、草蒸(=生)す屍とし、水浸く骨(カバネ)としてしまった反背の宰職や師職は拝礼や崇拝の対象から取り除いた上でなければならないであろう。平和憲法下の外交もしくは外征まではいかない段階の外政には論理的な要請上の前提として少なくとも戦犯霊の分離が必要とならざるをえないわけである。
それはともかくとして分理論的立場を、更にまた、大きく二つに分けてみれば、反対論が展開されている根拠の一つは分離不可能論であり、一つは全く論などをこえた即ち日本人ならそれ以外にありえない伝統的国家国民の文化そのものに長養された心情によるもので、固有の神道もしくは仏教的観念による、当然かつ正当なこととされているもののようである。ここには結局、傲慢不遜な大国主義によって下支えされて内政干渉排除を最重要点として展開する独善的にまで変形してしまった自国中心主義がある。これは競争どころか、ずばり抗争的闘争的と言わざるをえない代物で、これでは西洋倶楽部入りし近隣を血なまぐさい犠牲としてきた明治以降の歴史についての反省を全く欠いた、侵略的強権思想の復興的再出発とアジア諸国、特に中韓がみて、予め抵抗して潰しておかなければならない傾向とみられて不思議はない。実はここには西欧的伝統にもとづき、近代日本に継承された常識的正義及び国家観念が色濃く陰を落しているのだと言わざるをえない。
新憲法下の平和日本を見誤るな、何度謝ったらいいのだ、というのが代表的な積極排外論者の物言いであり、態度であるが、謝るというのは回数の問題ではなく、正意誠心を通じさせる問題なのであり、通じていないとみるや居丈高になって喧嘩腰になるような姿勢のものではありえない。論外というべきであろう。
分離不可能論についていえばまづ、到底肯んじえない暴論と言わざるをえない。そもそも、魑魅魍魎ならいざ知らず、もし遍在しえずしかも他の神と分離できない神があるとすれば特定箇所にあり、しかも分離しえない神の在り処の必然性はどこにあり、その神の有様、即ち在り様かつ存り様はいかがなものであろうか。もともとの産土の神が領土領国的土地の神としてその土にあり外れえないとすれば、それは見易い道理であるが、そうでなければ誰かがそこに祭ったからであろう。氏神は当然、氏の分離もしくは所在の変動にもとづいて次々に勧請され換地されざるをえないだろう。八幡神社、諏訪神社の外に大内裏に祭られる園韓(ソノカラ)の神もあげられるかも知れない。
「分祀不可能」論は、明治期の新設社ながらも戦争中、遠く延喜式的伝統にもとづいて国幣大社などのような伝統を引きずって、大日本帝国の国家施設となっていた、そして今なお国家的祭祀施設であり続けようとするかの如き靖国神社中心の考えであるといわざるをえない主張である。これについて後に詳しく述べることにしたいが、忘れずに記しておかなければならないのは、それが氏神としての祖神をまつるところでもなければ産土神でもなく、敢えて言えば古代に見られた防人的な思想が、いわゆる自衛のため、国家安全のための生命線防衛のための侵略思想に変生したものではあるまいかということである。言わば目的神とでも名づけるべく、そしてまた神官祭司のもしくはその他の決定権者の意志にもとづく祭祀に外ならないであろう。そしてそれはそのような意思もしくは意志は七転八起(ナナコロビヤオキ)して体を替え名を替えても七生報国の鬼となって転生するもので、生きてあるものはそのような神々の精神を受けつぎ、これを祀って華厳し荘厳しなければならないわけなのであろう。即ち国のために闘った英霊の鎮魂のためであり、その行為の顕彰のためのものである筈であるが、実体は主権掌握者のために働いたものに対する慰励であると同時に奨励であるとも考えられるが、ここでの奨励は督励、更には督戦というのがふさわしいことになってしまいはすまいか。そのうちにはむかしの防人のように被征服の被使役者も含まれ、その魂の民族的誇りも奪われたままであるのはどういうことになるのであろうか。
昭和になってからの大動乱の敗戦による終結後に植民地の役民や被害民たちの保護保障の責を徹底的に放棄し、その後もその姿勢を基本的には換えようとしない。そしてまた現実に行政府の主が参議やその他の議政府の選良の存在理由を剥奪するといって過言でないことを敢えてしていながら、必ずしも国民から非難されてはいないことを日本国政府の姿勢と併せ考えて、そしてまた旧植民地や被侵害国の抗議や非難も物かはとばかりに独善独行する日本国の姿勢は伝統的あり方と神祇の面に表れた独善独行的現象と、そしてまた神祇太政両官や府もしくは両者の結びつきとでも言う外に評しようのないものなのだろうか。
また平和国家としての日本はポツダム宣言をも「受諾」し、天皇制護持のために東京裁判に服してサンフランシスコ条約を結んでやっと出発可能となったのであるが、日本の侵略を受けたアジア諸国の中でも日本国を免罪にしまた免責にもした特に中韓を主とする国では、日本国民を含めてみなその被害者であるという認識に立って、A級戦犯とされたものの責任は最後まで問題とせざるをえないのであり、そのように認識の定式化によってその後の協力や友好の基礎を築いたもので、その否定は日本側の侵略的、少なくとも主権侵略といえば否定しにくい振舞いの、それによる占領もしくは根本的反省を否定し、従ってまた敗戦以前の日本肯定に少なくとも一旦は立ち帰ることになるという結果になるが、外交的にみれば、新しい平和友好の基礎としてこれを相手側に認めさせることにならざるをえないということになるわけである。
平和は日本では、明治、大正に続いて昭和、平成と続く年号のことにも関係してくるが、和が?でないことに注意しなければならない。和の精神を?の精神に変えていくべきことが、特に新生日本にとっては肝心肝要のことといわねばならない。聖徳太子の十七条憲法の冒頭部分の「和をもって貴しとなす」は有名であるが、すぐつづいて「上に忤(サカラ)うなきを宗と為す」としていることに深く注意することが忘れられていることは大いに問題であろう。「忤」は心と午からなるが、午は
●(逆のシンニョウなし)の字であるが午は●(逆のシンニョウなし)と逆にむかえるのではなく、あくまでも「さからう」の意である。
更にいえば、和は降服させてさせられての、つまり平げ、平げられた上での、言ってみれば講和、媾和的「わ」であり、「わ」の形成であること、「やわげる」即ち「やはらげる」は平ともかかれ、和とも書かれるが「やはらぎ」の果ての「やはぎ」であり、「やはす」ことによる即ち降服させ帰順させることによるものであるが、「ことむけやはし」が真に言むけに止めたり止まったりするか、干戈をもってするまでになるかは大違いであろう。
「平」についても平章と平成は必ずしも同じと考えられるものではないのであるまいか。「平」は平気、平居の場合のような形容詞である外は、平定、平遣のような他動詞であることに注意しなければならないが、「平地」のようになれば、別々のものと意識された上での両方の意で用いられると言えるであろう。この際にA級戦犯のいわゆる分祀を否定する首相の「罪を憎んで人を憎まず」の精神の援用であるが、そのような発言は孔子そのものの言として古典籍の中には見当たらないという学者による指摘も特になされているにしても、そのことはこの文章の中ではさておくが、内国的喧嘩や抑圧的手打ちの際の事情において人を傷めつけた者の方が相手を前にして言ってのけ、「水に流そうではないか」とシャンシャンの手打ちや手締めを迫るに等しい無礼極まりない申し出で、それこそ力づくで相手を屈服させよう、させうるという不当な自信に満ちた態度の裏返しの、暴力支配の典型的押し付け言辞に外ならないといわなければならない。
もともと大国や強者は特に暴力的性格のものでなくても、ついつい傲慢かつ不遜にも不注意に亙りがちで、A級戦犯合祀の神社に参拝することは約束違反であるばかりでなく、そもそもA級戦犯合祀は私人としての行為といえるものでありながら、尚もと公的担当者であったものの行為としてみれば、弱小化し権威を失ったことに対しての怨みによるものか仕返しの意図からするものか知らぬが、行為そのものもそれに関する強弁も約束違反というも愚かな甚だしい背信行為といわなければならない。とにかく、しかも根幹的約束違いというだけでなく、積極的に力づくの自家主張をやめようとしないことにもなるものである点を軽視しうる筈がない。根本的に無法かつ悖徳であり、徹底的な背信冒涜を重ねるものと言わざるをえない。勿論、具体的国際法的精神からみても背信行為に外ならない。国際社会を含めて、社会秩序の根本と言うべきここには法の精神がなく、ただ情に絡んで強要する力の制圧伝統があるのみである。罪を憎むのは、罪を正義と教導の出発点としながらも、人を恕し寛す心を失うことがあってはならないという誡(イマシメ)を詮(と)くものである。寛し恕すことは許すこととはまた別のことであって、「ゆるし」のその根底にある緊縮、緊縛などの緊張をゆるめることであろうが、その心は憐みではなく、愍みなのだと言わなければならない。仁義は真には廃れざる大道に即してあるものであろうが、その道でいういわゆる「仁義」は「本願ぼこり」に類するものである。
なさけもあわれみも一様ではないことも知らなければならない。そして、人の「情(なさけ)」にかかわるものに種々あるが、そのうちの「あわれみ」の情も一様ではない。愍は恤、?や哀、憐とは勿論、憐憫とは弁別されなければならない。愍の字の本意は心のまだつかない●(愍の上のみ)(ビン)であるが、その字の示すのは単に「つとめること」でも「あわれむこと」でもないであろう。「民」の字を含むことに深く留意すべきである。●(愍の上のみ)は「攻」の左篇が「攵(ボク)」から「攴(ボク)」に代ったものであるが、棒で打ったり叩いたりすることを示す「攴」だけは共通である。「工」の字と一緒になれば、打ったり叩いたりして工作物を作ることになるのは当然であるが、「民」となったらどう理解すべきであろうか。まさか民を叩いたり打ちのめしたりすることでなく、民に何らかの変化を与えようとすれば、棒ではなく教えをもってし、時には教えを強制するということにならざるをえないが、打擲することにはなるまい。打擲を加える代わりに言葉を使って教えることになるわけである。厳しく教えることの反面において、同時に慰め励ますことが加わらなければならないであろう。言い直せば、恐らく民に対しては「あわれみ」「強い」る心のうちに、民に対するあわれみの裏に、また自らの心裏に、矜(ホコ‐リ)にも通ずる「衿」があるであろう。矜と衿の関係は同じ「今」につく矛が衣となり、道具をもって叩く代りに、自らの衿を正すということになっているのである。