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今日の日本は平和に徹した国家として大いに繁栄している。この平和は一方で日本がポツダム宣言をも「受諾」し、天皇制護持のためにかどうかはとにかく何はともあれ東京裁判に服してサンフランシスコ条約を結んでやっと出発可能となったのであるが、他方で日本の侵略を受けたアジア諸国の中でも日本国を免罪にしまた免責にもした特に中韓を主とする国では、日本国民を含めてみなその被害者であるという認識に立ちその認識の定式化の上に立って、その後の協力や友好の基礎を築いたものであって、最終責任をすべてそこに絞り込んですべての侵略責任はそこにしか求めないとしたA級戦犯となるものの責任は最後まで問題とせざるをえないのである。日本の一部では日本側の戦争責任否定論に忙しいが、その否定は日本側の侵略的、今になって今こそそのときとばかりに無理遣り振舞いの、それによる占領もしくはそれへの根本的反省を否定し、従ってまた敗戦以前の日本肯定に少なくとも一旦は立ち帰ることになるという結果にならざるをえないというのがその論理的帰結となるが、外交的にみれば、新しい平和友好の基礎としてこれを相手側に嚥(の)み込ませることにならざるをえないということになるわけである。
平和は日本では、明治、大正に続いて昭和、平成と続く年号のことにも関係してくるが、通常の受け取りに反して白川が言うように本来は和が直ちに?(わ)ではなく、時には殆どありえないもしくは必ずしも?をもたらさないことに注意しなければならない。和の精神を?の精神に変えていくべきことが、特に新生日本にとっては肝心肝要のことといわねばならない。聖徳太子の十七条憲法の冒頭部分の「和をもって貴しとなす」は有名であるが、すぐつづいて「上に忤(サカラ)うなきを宗と為す」としていることに深く注意することが忘れられていることは大いに問題であろう。「忤」は心と午からなるが、午は?の字であるが午は?と逆にむかえるのではなく、あくまでも「さからう」の意であるが、いまこそまた或いは今度こそ上とは何なのかに深く思いをいたさなければならないであろう。
更にいえば、和は降服させさせられての、つまり平げ、平げられた上での、言ってみれば講和、媾和的「わ」であり、「わ」の形成であること、「やわげる」即ち「やはらげる」は平ともかかれ、和とも書かれるが「やはらぎ」の果ての「やはぎ」であり、「やはす」ことによる即ち降服させ帰順させることによるものであるが、「ことむけやはし」が真に言むけに止めたり止まったりするか、干戈をもってするまでになるかは大違いであろう。
「平」についても平章と平成は同じではない。「平」は平気、平居の場合のような形容詞である外は、平定、平遣のような他動詞であるが、「平地」のようなものは、両方の意でありうる。A級戦犯のいわゆる分祀を否定する声に対する首相の弁解して言う「罪を憎んで人を憎まず」のことについていえば、そのような発言は孔子そのものの言としては古典籍の中には見当たらないという学者による指摘も特になされているにしても、孔子の権威を借りようという邪心の如きものは論外にして、私などの喋々を加えるべきことでなくそのことはさておくが、とにかく一言しておかなければならないのは、前と後の憎は同じか別かについては一応は考えてみるのも重要であるということである。罪についての憎は自発自然の当然の情であっても、人を憎みうるかどうかは必ずしもきまらない。即ち同じとは言えないということである。首相の言はA級戦犯として裁かれたものについてまで、憎悪や否定の心を向けてはならないというお説教ということになるが、一事不再理どころか、全く人を裁くなという厚かましくも図々しいことにならざるをえない。今それをいうことは何処にも誰にも追求されるべき責任はない、或いは少なくとももはやないことになる。過去のことは水に流してしまおうとするのか、ともかくひとりでに雲散霧消してしまうわけではない。それとも水に流すどころか、坐してその暴言を承り、その対自国民的かつ対相手国民及び政治に対するマスコミのカメラを従えた上でのデモンストレーション的行為もしくは行事を看過せよというのか、そして日本国民には花嫁行列か花電車をみるように観劇的喜びを味わえとでもいうのか。しかし、罪悪深重な人にも自然的情において、必ずしも人としての情に欠けるわけではない。かつての日本でも目の色肌の色を問わずに人情を抱きえた時代がなかったわけではない。戦後のことではあったが、かつて「まんぼう、にんぼう、とんぼう」ばかりでなく「ちび、くろ、さんぼ」のような他愛のない言葉が問題にされたことがあった。今では世界中の自然保護とか動物愛護などの声に元気づけられて鳥獣は勿論、寸尺の虫にも命の連続からする憐みの手を差し延べて、時に人を唸らせたり惘(あき)れ呆気にとらされたりする。いまかつての忠勇の士を悼み心を痛めるのも大いに結構、しかし結構は阿房の唐名では困るが、空名ではなく、変な実利実効の裏づけのあるものでは困るどころではない。
内国的喧嘩や抑圧的手打ちの際の事情において人を傷めつけた者の方が相手を前にして「水に流そうではないか」と言ってのけ、シャンシャンの手打ちや手締めを迫るに等しい無礼且つ無責任極まりない申し出で、それこそ力づくで相手を屈服させよう、させうるという不当な自信に満ちた態度の裏返しの、暴力支配の典型的押し付け言辞に外ならないといわなければならないのではないか。これは真に?(わ)をはかることとは程遠いものである。
もともと大国や強者は特に暴力的性格のものでなくても、ついつい傲慢かつ不遜にも不注意に亙りがちであるが、A級戦犯合祀の神社に参拝することは約束違反であることは勿論のことであるが、首相の当該神社参拝が、ばかりでないのである。そもそもA級戦犯合祀は私人としての祭司の祭祀行為といえるものではあるが、もとは公的担当者であったものの、ついこの間まで国家的施設であり、日本国民にさえそのような意識の消え去らぬ神社における、半ば公的意味づけをもつかのような行為としてみれば、弱小化し権威を失ったことに対しての怨みによるものか仕返しや戦意高揚のためではなく、ただの士気鼓舞或いは志操強化のための意図からするものか知らぬが、とにかく対外的には国家的公的な公的性格をもったものと見られながら、行為そのものもそれに関する強弁も慎もうとする気はとにかくさらさらないということは約束違反というも愚かな甚だしい背信行為といわなければならないことになろう。しかも更にいえば、根幹的約束違いというだけでなく、積極的に力づくの自家主張をやめようとしないだけでなく、それ以上に根本的に無法かつ悖徳であり、徹底的な背信冒涜を重ねるものと言わざるをえないそのような行為をやめようとしないことには不気味なものを感じて当然である。どうすれば、その点を平然と無視しうるのか不可思議である。具体的国際法的精神からみてもどうみても、背信行為に外ならないのである。
ここには国際社会を含めて、社会秩序の根本と言うべき遵法の精神がなく、ただ情に絡んで強要する力の制圧伝統があるのみである。罪を憎むのは、罪を正義と教導の出発点としながらも、人を恕し寛す心を失うことがあってはならないという誡(イマシメ)を詮(と)くものである。寛し恕すことは許すこととはまた別のことであって、「ゆるし」のその根底にある緊縮、緊縛などの緊張をゆるめることであろうが、その心は憐みではなく、愍みなのだと言わなければならない。仁義は真には廃れざる大道に即してあるものであろうが、真義に外れた道でのいわゆる「仁義」は誤った「本願ぼこり」に類するものである。
なさけもあわれみも一様ではなく、また人の「情(なさけ)」にかかわるものにも種々あるが、そのうちの「あわれみ」の情も一様ではないことも知らなければならない。「あわれみ」といっても隣のように憐は相連なり続くことをいうが、愍は矯正の意を含むものである。愍は恤、?や哀、憐とは勿論、憐憫とは弁別されなければならない。愍の字の本意は心のまだつかない?(ビン)にあるが、その字の示すのは単に「つとめること」でも「あわれむこと」でもないであろう。「民」の字を含むことに深く留意すべきである。?は「攻」の右篇が「攵(ボク)」から「攴(ボク)」に代ったものであるが、棒で打ったり叩いたりすることを示す「攴」だけは共通である。「工」の字と一緒になれば、打ったり叩いたりして工作物を作ることになるのは当然であるが、「民」となったらどう理解すべきであろうか。まさか民を叩いたり打ちのめしたりすることでなく、民に何らかの変化を与えようとすれば、棒ではなく教えをもってし、時には教えを強制するということにならざるをえないが、打擲することにはなるまい。打擲を加える代わりに言葉を使って教え込むこともできる。そして、厳しく教えることの反面において、同時に慰め励ますことが加わらなければならないであろう。かつて思慮分別のまだ十分でない若者を狩り立て、分別ある年の人間的教養を備え、十分に思慮あるもの達は、国法によって縛りつけて死地において死屍の山築かせたのは誰だったのか。そしてまた、恐らく指導者らしい指導者には民に対して「あわれみ」「強い」る心のうち、民に対するあわれみの裏に、また自らの心裏に、自らに対する憫(あわれ)みのあり、その憫みには身にも心にもついて離れぬ矜(ホコ‐リ)にも通ずる「衿」がなくてはならなかったであろう。矜と衿の関係は同じ「今」につく矛が衣となって直接にして離れることのない着衣の襟に映える衿章となり、道具をもって他人(ヒト)を叩く代りに、自らの衿を正して姿勢を正すということになっているのでなければならなかったであろう。
そこでここでついでに言い添えておきたいのは、その衿章が兵科別のそれを示す徽章にすぎなくなって、世に天皇の統率し給うところと称して、外から付け加えられた上で排他専制的になった軍権の、単なる軍服の矜の装飾としての矜章に堕してしまったところに誤りの根本があるといえる。衿は本来禁を包む字の襟のことでもあり、胸を覆い隠して魂を内に深く懐くものに外ならないのである。
そもそも中国皇帝のカリスマは泰山に天を祭りそこで得たもしくは得るべきカリスマであって、皇帝の出自の氏姓にはかかわらぬものであったが、たとえ同じく八紘一宇的天下泰平四海波静を実現しようとするものであっても、天からのカリスマに基き天命をうけての使命を抱くものに比して、天孫に淵源する氏族的でかつ一系の一家的カリスマを振り翳(かざ)して、他氏に天皇支配下の姓(かばね)を押しつけるものにすぎず、本来の皇帝の統治とはまるで違うもの、ないしは全く異なるものと言うべきではないのか。帝王的支配を一王朝の支配と同視して、天命をうけたものとしての革命的王朝交替を否定する思想下の天子僭称が、日本的問題の本質とみてよい。
憲法問題としていえば、その国際的問題にもかかわるものの外にも、一国の首相の一国の公的代表者として元首以上とも言うべき首相としての靖国神社という特定の特殊神社への参拝はこれで信仰の自由を論ずる際にも決して見逃すことのできないことであるが、そもそも国家社会の存立の根本にかかわる大問題なのである。聞く耳なく語る言葉もなく敢えて強引にする提起はただただ不埒不逞で不倫極まりない無道極道のやり方としか言い様がない。
当節、国際的関係を論ずる際に、徒に競争、争闘的に国益を論ずることが流行って、伝家の宝刀を身に帯してするのが外交らしい外交であると決まっているかのようであり、これに対する反論も弱弱しいようであるが、協調妥協して仲の道としての中道を選び、決して中庸を捨てることなく、あくまでも外交でありつづけるべき真に外交らしい外交とは何なのか。外とも交をこそ尋(ト)め留め行くことこそが外交なのではないか。外交が放棄されるときこそ戦争に至る争いの始りと言わざるをえない。内であれ外であれ、凡そ「交」わるということはどういうことなのか。刃を交え戦火を交えることも本来意味するものなのか。交わり組み合わさることこそ交の基本であって、離れ対決するようなことはむしろ交に反するといわざるをえない。外交は戦争に連続するものである筈がない。ありうるのは親しく相交わり助け補うことができること、互恵平等であることこそ外交が外交であることの要である。一向(ひたすら)に戦争もしくは勝敗的結果を前提とするのみのものなどが、そもそも果してもそして如何なるものも一体全体外交というものなのであろうか。
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