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近頃殆ど異口同意に「安全・安心」「安心・安全」などといって、不当に政治行政的場面での「心」への却って責任回避にもなる無反省な言及がみられるが、それは安心が根底においては脅かされている状況にあるから或いは少なくともそれが予想されるようになったからではあるまいか。
しかし、心は基本的に個々別々の個人に帰せられるべき問題で、公的な国家社会の問題は殆どその前までのものに止める厳格かつ慎重な役割りに徹する姿勢を欠いてはならない。攵(ボク)即ち攴(ボク)は支(シ・キ)とはしっかり分別されなければならなず、支えるのではなくうつ、たたくことを意味するにしても、教のうちのそれと工と合わさった攻の字のうちのそれとは軽々しく混同され、たとえ人の子も工作物に過ぎないものと考える方が都合のよい時があろうとも、決してその違いを無視し忘却するようなことがあってはならないだろう。そして、攻め責めるとは無論のことだが更に言えば、教えるのと導き諭すのをも、諭と論などをもごたまぜにしてならないだろう。元来、人ひとりひとりの心にまで立ち入り踏み込んではならない筈の政治や行政がやたらに「安心」を語るもしくは語らざるをえないのは何かおそろしい結末が待っているような気がしてならない。
先程論じておいたように、分祀不可能論者の考えの背後には死ねば皆神という思想があるが、しかしそれもイデオロギーなどの一種で強制的にすべての人に押し付けうるものではない。それはあまりにも独善にすぎると言わざるをえない。日本国内においてもそうだが、多分外の人たちにもそれを認めさせようとする根拠は一体何なのか。むしろ何とか了解を求め願うということではないか。そして、丁重に了解を求めるということは、求めえられればありがたいといった性質のものであろう。
このことについては、はっきりさせなければならない二つのことがある。首相のデモンストレーション的つまり示威的な公式参拝は別にしても、憲法が国民に対して信仰の自由を憲法が認めているということは当然、靖国神社に参拝する自由も参拝しない自由も認められているということである。言うまでもなく自由とは他から強制されないということであるが、しかしその上で、更めて考えてみなければならないことであるが、憲法が保証しているからと言って直ちに自由が誰にでも保証されているということにはならないのだということである。基本的に自由であることは何が何でも自由ということではなく、他に憲法に反しない何らかの制約が全くなければということである。特に公務員は一般の国民とは違って様々の法的制約を課せられている。首相などの特別公務員はファッショ国家でない限り特に順法性が重視されるが、ファシズムの特徴は合理性合法性よりも感情の自由が支配的となるところにある。ところで、今ここで問題として取上げなければならないのは首相の靖国神社のことである。そして問題の核心にあるのは中国、韓国の再三にわたる反省要求がなされることとそのわけである。
明確な形の要求以前のうちの外交的配慮を伴った要請段階の意思表示を内政干渉として国内要求を躱(カワ)し反対論の先頭に置き、民族的心情を持ち出して相手の言い分を無視するように一言のもとにあっさり切って捨てようとし、相手の要求は相手の民族主義的煽動によるなどと言い争いに言い募るようにいられるものだろうか。しかもこの要求は近い過去における動かしがたい歴史事実に基いているものなのである。私的な宗教的身上の立場ではなく、公的な外交即ち対外的に政治問題として考えてみてそれでよいのだろうか。核心は二つなのである。一つは要求し要求されているという事実であり、また一つはそのわけである。事実は殆ど誰しもが否定できない。それが命令でもなければ強制でもなく、かといって懇願嘆願の類いでもないことは言うまでもなく、その意味で要求の事実が問題にされることはない。問題はどういうのが要求内容かといったことであろうが、外交的に望ましくないという意思表示をなしている。逆に一言で要点だけを言えば、日本としては行くなと言われている、要するにそういうことである。要求し要求されなければならない「わけ」なのであるが、先方の言い分によれば問題にすべきは双方の関係は加害と被害の関係であるが、そのことに対する反省が足らない、みられないということであるのに対して、日本側の意見の中には、日本は差引き恩恵を与えたのであって、非難は的外れであるという類いのものもないわけではないが、大勢をなすのはどれだけ謝ったらいいのだ、ということであろう。言い換えれば謝罪はもう済んでしまっている、今更何をいっているんだということになると言って満更当らないではないだろう。ここでは長くなるので内容の検討には入らぬが、問題をもっとも簡単に整理すれば、日本側のなしてきたのは相手側の煽動によるものだといって取り合わないようにするにしても、逆の民族的な国内的原論の形成であったようにも思える。そして、日本側が双方の言い分に関係していまやなすべきこととしてやっと合意しているのは、日本の行為についての歴史的考察による結果的合意を俟って、ということのようだ。しかしその根底にあるのは、正当、不当と是か非かを争う構えであると言えなくもない。そうなれば百年河清を待つようなものと言うべきことになるのかも知れない。
今それとは別に、他方で大衆的文化交流や経済至上の成長的合流形成が進んで、一種のブロック形成が見られるようになったともいえるが、そもそも「行い」はたまたまの謬りを別にすれば、まさしく心のあらわれであるとすれば、深く反省し行い慎もうとするのでなければならないであろう。西欧近代の政治思想上の術策的主権思想にとっぷり浸り切ってはなるまい。内政干渉を非難しうるのは全く国内にのみ主権範囲内の問題を惹き起こすにすぎない場合であるが、たとえその波及の問題にすぎないとするにせよ、それを忘れれば外交も形だけのものになり、すぐ戦争の問題へと飛躍せざるをえないことになる。日本的伝統といってすませるわけがない。
今日の日本と日本をめぐる近隣諸国との間の平和友好の基礎となっている問題にふれるのならば、伝統については、捨てなければならないものやことが限りなく多い中でほんの一例をあげれば、明治の日本では、アメリカではまだ銃の禁止ができていないというのに、西欧的近代国家にクラブ入りするために断髪廃刀を行なっているではないか、一般の公共的入浴施設では男女混浴は廃せられたではないか、歴史上王族とともに古いとも言ってのけられる売春婦について、少なくとも公娼は新生日本ではよかれあしかれ廃止されたではないか。それらは確かに信仰問題ではない、しかし首相が堂々と首相としての立場から国際に明らかに問題視されざるをえない擬似宗教的行動をとり、しかし、関係諸外国の度重なる不快表示をものともせず、国会で取り上げられるに至っては堂々と判で押したように内政干渉とかその時になって適切に考えるとか言うのみで、それを繰り返してやむことがない。これでは「内政」をむかしの「上後一人」や軍に置きかえた神聖不可侵の位置にまつり上げることに外ならないという外に言うべき言葉を知らない。そして今では遂に、控え目の不快表示の段階をこえて外国の声は明らかな非難、難詰に代ってきた。実際にこれに対して、野党ばかりでなく与党反対派がはかばかしく反論し切れないのに加えて、表面的な弁解的言辞の半面で政権内の人間のうちの誰かが政治の公式表明と殆ど常に時を同じくして、明快極まりない形で反対の意見を発表もしくは表明して間髪を入れず謝罪効果を消し去ろうとせざるをえなくなったのである。これでは何時までも内政問題とか、さらには首相の行為が個人の信仰心の問題とかと強弁しても、結局は頭かくして尻隠さずという体のもので、大多数が意識的確信犯的言行一致的行為として捉えざるをえないことになるのである。いまや石の声さえ聞かれようとする今日、反論の一つの有効な根拠として用いられはすまいかと思うのであるが、ここで一つ忘れてならないことがある。
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