2005.12.05.
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statusが階級的差別の上にこそありうる概念であるのに対し、国家は大規模化した家とも大家(オオヤ)もしくは大宅などの公(オオヤケ)のこととも考えてよさそうであるが、とにかく祭政一致的であってこそもともと族的な家の延長としての共同体的性格を備えたもしくは残したないしはそれに発してこそ「国-家」でありうる。原理的にみれば、勿論家は家政と祖廟の二面を備えるものであるが、国は四囲を有形無形の武力によって画された地域もしくは屋宇屋宅でもある。stateはestateの意味を全く外しては考えられないのである。がしかし、単なる形式をこえた総奴隷的総農奴的支配体制のものを直ちに「国家」としてしまうのは問題である。stateは職業についてにせよ領域領土についてにせよまた地位にせよ財産にせよ、確定し確立した意味を含むもので、家としても国としても同じで、有数のものはsymbolやemblemで表現され定式化されて名指された家として、またその領土領域が格上げされて国土国域となって始めて、英語ではただのterritoryから格上げされて国家と訳されうるstateとして位置づけられていくことは容易に明らかであろう。しかし「朕は国家なり」という言葉はあまりにも有名であるが、そもそも封建国家なるものは基本的にはもっぱら君主にとっての国家に過ぎない。stateはestateの意味を含んでおり、もともと単一の意味で理解するのは問題である。国としてみるか家としてみるか、一応はけじめをつけて考えなければならないのである。
単一的な同族的家社会から、複合的社会へと発展するとき、君主-族民的統治構造がたとえ支配民族と被支配民族の組み合わせ構造となっても、国家として表現され意識されるものはあくまでも全体としての「家」性を根底にするものであるといってよい。かつて日本的とされ一時は広く褒め称えられるに至った会社経営が幕藩体制下の藩的性質を引き受け、血縁中心の家所属の人の集団としての「私的人-間」とは別に、stock-holderないしstock-stacherでなくとも、会社人間という藩に替る仲間的な公的人間世界を作ったのはその一例と言ってよい。
今では田の面に頼もしく丈(たけ)きないし健(たけ)き男(をとこ)ばかりでなく家居(いえゐ)につきづきしく家内屋内に安寝安居させたき若嫁(わかめ)女(をみなめ)などの処女(をとめ)も外面(おもて)に立ち働くべきだとするのが常識のようである。が、しかし他面で女性を解放しようとしてのそのような常識形成の実は、生活が資本主義的な経済の圧迫下におかれてしまったという情けない現実の姿の反映に外ならないのであって、幕藩体制下の一族郷党的共同体意識下での対外的志向の裏返し結果として生ずる同族対等的藩意識に根ざして庶民にまで及んだ「おらが」国的な藩屏ならぬ共有共同意識に及んだ悪しき同類意識の現代的名残とみることもできる。そして現にいまや安心して子どもを産み育て、老後も健康ならば自ら安全を図りながら生活できる社会もしくはそのようなことを可能にする社会保障が何よりも強く求められる社会状況になってきてしまったようである。確かにそのようなあしき面はあってもまことには進歩主義思想にとっては、敗戦後の日本の社会学者を始めとする進歩的有識者達が叫び立てたようなあらまほしきこととまじめにいえることであるのではあるまいか。
だからといって急にはどうということもないかも知れず、またどうしようもないであろうが、しかしここで、主婦などを含めた処女や処士にも向かって言えることは帷幄のうちにあっても勝ちを千里の外に決しうるのだということである。
政はまつりごとというように、治安統治行政であることの外にも教育啓発的行政として、強制的であるばかりでなく真を教え正すものでもなければならない。まつりごととしての政治と宗教は必ずしも二つの別のものではなく一つのものといってよい。ともに、正をもとめ、謬見を正し、非を防ごうとするものなのである。その中政治はそのための条件を整え、必要に応じて強制力に訴えるが、個に全を、私に公を、個別に公共を優先させざるをえない。しかし優先されるということは個の尊厳即ち個‐性や人‐格が非認されるということではない。従って、政治行為と対立すると問題を起すことにもなるが、宗教的必要は否定されるべくもない。忘れてならないのは両面の調和である。別個のものの間の調和ではなく、一体をなすものの別面、別方向性などの間の調和的共存であり、矛盾の適切な止揚調整なのである。対立は敵対的な関係を意味するばかりではなく、補完的対立もありうるのである。そしてよく見られるように補完的対立を依存的対立と混同してはならない。また相補性を忘れて単独独立的に自立を言うのも大いに問題である。必要なのは自立でなく自律である。今のことに言い添えておけば首相の靖国神社参拝について中国や韓国から言われて、外国に言われたからといってやめるのが問題だとするのは自立即ち独立についての不安をいうものであるが、そこにあるのは自律の精神の欠如というほかない。自律的反省を欠いた独立的自立を強調するのは侵略主義の一つの現れであると思えてしようがないのである。
2005.12.05.
靖国問題の本質
辛島司朗