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2005.12.05.
西欧的精神風土の中では比較的に新しいものとして称揚されたてきたが、何事も西欧社会からとする日本ではあるがその現代において、東洋伝来のものとして底流に受けつがれてきた精神は、ブラジルの建国精神として国旗の中に明示されているComteの言葉「ORDEM
E PROGRESSO(秩序と進歩)」にもみることができる。その他にも実は古くから説かれ続けてきたことであるが、いろいろあるうち、人口に膾炙しているもののしかししばしば不消化のAristotelesのzooion
politikon, logon ekhon<人-間は>「理性的であるべき政治的社会的動物生物である」という言葉は軽んずべからざる大いなる言葉であり、基本的ポイントを逃さず捉えて理論的かつ根元的に形而上学的把握の極まったものである。しかしそれが西欧的近代において社会性が軽んじられ、今やその傾向は米日に於いて極まり、大いなる不安の種ともなっている有様である。
東アジア的精神風土において、宗教文教の教えの代表はその名に相応しく儒家の教えであり、律令的国政は法家にこそ相応しい刑罰命令権の行使を基本とするものである。儒教は、キリスト教やそれと源を同じくする唯一絶対神の言葉を絶対的命令としているものとは別に、仏教とともに遵守すべき教えであり、宗教的教義として訳されるようなdogmaの絶対化はなく、理性悟性的摂取と批判的改変もしくは否定を許すものであり、神学とは別の一般的な学問性にもとづく極めて学問的教えであるということができる。
しかし問題は教えには邪教さえもありうるように、政治の中で邪宗邪教に当るのは悪法であり、法匪や酷吏による威令づくの頤令のようなものであろう。そして、「学匪」などの語も時には見られるようにいわゆる学問の中にも邪教に匹敵するような正しい動機を欠いた職人のような学人学者のあることを忘れてはならない。この面々は真の学問性を欠いたままあるいは学を進めているうちに岐路をいくつもこえて専門の細路に入り込んでいるうちに問を狭く狭くと限定して、一定の職能の入手とそこでの名誉と地位の安定に安住しやがてはソクラテスをしてカイレポンによるデルフォイの神の判定に深く帰依せざるをえなくするのである。正常正統と異常異端の別を重視する権力的権威主義の西欧的世界ではkatholou性である即ちcasolicであるか否かが正邪を分つものといってよいだろうが、これこそCasolic世界をこえて妥当し何処にあっても、学的そしてまた現実的に真偽と正誤を分つものと言ってよく、また正しく正邪を分つものともなるものであるが、詳しくはまだここでは言えないことにしても、一般に理念においての誤りは実定法的なレベルのものではなく根本精神からの法理念改変が必要とならざるをえないが、その改変改心は法の改正などのような簡単なものではなく、瑣末のものに盡きてしまうものではないということだけは言っておかなければならない。敢えて一言で示すならば、先の問題に一旦もどることになるが、「家」について、家庭的なものが「家」か、建物としてあるのが家かと聞かれれば、家庭と建物の両者が直ちに同じというふうには到底答えられないだろうが、たとえ即座には対応対答できないにしてもつくづく思えば、相互に影響しあい干渉しながら支え合い援助し合いながら暮すこと、従ってまた所謂家(いえ)即ち家屋をもろもろの見立てからの立地問題をも含めてアット・ホームに設計し、管理維持することが大切であるだろうとは思われる。郊外の自然な恵みの豊かさも、職住接近もともに重要な立地条件であり家族団欒的家庭生活にとってはいずれも軽視できないものの筈である。
先ほどから些かながらも理解をもとめて説明を試みた際に附言したように、しかしすでに
homeとhouseの日常語としての使いわけは殆ど確立しているものと思われるにもかかわらず、いやむしろそこにつけこんで、最近の日本では住めば都と昔から言われているのにもかかわらず、old
home的なものこそsweet homeの不可欠の要件であるかの言辞を弄し自然要件に恵まれていることを売り材料にして開発しやすく、もうけに近い郊外のそのまた外に開発をすすめ、ホームを売るかのように名付け謳って家屋を売り売らんかなの不動産会社も数多く現われたりしている始末である。反面では個人主義的思想にもとづいて生活基本設備などを忘れてでも個人個人の寄り合い烏合する雑居処であるかのようにして住まうのが理想的であると考えて、そのように力を盡くす設計者達が輩出簇出したりもしてきた。本当のところは家屋としての家は容易に建て、またその寿命からいっても比較的容易に建て直しがきくが、真の家はすでに物理的に壊されてしまっているのでそのことに気づかず思いも及ばないのであろう。しかし、遠く敗戦直後まで遡ればアメリカ社会一般のものと見做されるような社会を言い立て囃子立てた智恵足らずの社会学者たちこそ深刻な責めを感じなければならないだろう。しかし、いまそれは、今ではもう見捨てられてしまったような哲学の徒でありながら、新しい時代にむかってのHeraldとしての安全学者などの役割であり、その旗印の下で開発的商業的統制を乗り越えた安全工学者の任務となるのでなければならない。早速にこのあたりの理論がまとめられなければならないが、ここではこれまでにしておかざるをえない。
当節のようにそれが忘れられたり無視されたりしてしまっては誰しも困惑せざるをえないが、英語などでもhomeとhouseの別はかなりいや十分にはっきりしているのである。両者の別は厳密には必ずしも画然と常に弁別できまた弁別されているとも限らないが、しかし少し気をつけていれば、homeはたとえ古くは土地や財産性を伴うものであっても、worldやvillage、farmなどまたgroup
of dwellingと関連する語であるとも、native placeからplace of residenceのこととも理解される言葉である。アングロサクソン語ではh?mからくるとされる英語homeに対して、h?sからくるとされるhouseはもともと動詞to
hideの意味からcovering、shelterを意味し、その意味から更にdefenderとかprotectorの意味にもなり、そこからhusbondaすなわちhouseholderとしてのhusbandやhusewifからくるhousewifeなどがでてくる語であるが、防御的防衛的意味からは家屋になると考えてもあながちに過りではないだろう。勿論homeは安居生活そのもののあり方を意味するものととるべきであろうし、これに対してhouseは飾られ、Houseは荘厳されなければならないであろう。一言で言えばhomeは内側の雰囲気中心のもの、houseは外向きの面を主ともしなければならない性質のものと特徴づけうるかも知れぬ。
特にhomeについて言えば、houseは社会の中に地歩を占めてゆくべき砦といってよく、homeは団欒の場といってよい。違いはあって当然であろうが、しかしともに団円するものであることは同じであろう。●【亦+木】は通常「らん」と仮名表記されてわからなくなってしまっているが、本字は欒であり、●【變の上半分】(レン)ははじめ乱れあるものを治めるが、絶えず久しくこれが続くことを意味するものであるらしい。これに暴力を加えれば「変」となる。略体字「変」はもと變と記される字で、当然「レン」の音の恋(戀)にも●【亦+木】(欒)に通ずるように、変は乱にも通ずる筈であるが、その他レンには臠彎、ランには鸞巒などの字もある。蠻は野蛮の語にみるように、バンの音もある。欒は戀即ち恋にも通ずるが親鸞の鸞即ち聖や禅にも通ずる。Homeには特にそのような意味の開け連なり正しくいえば広がりのあることを心得ておくべきであろう。
しかし、ここでもやもやになりがちの雰囲気中心、融和安住安楽中心になり勝ちでムードに流れ易い団欒するhomeや対外的に団結して威信威勢を保つべきものともされるHouseの別の問題に限らない。何事にもあれ、正しく妥当する理念を求め、その実現の筋道、術策を究めようとする者は、まず単に事物の名称を正すばかりでなく、凡ゆる物事についても即ち有形有体のものについても無形無体なものについても万事に概念をつきつめ事物にも言語にも常にその異同を誤りなく捉え、同類概念対立概念ひいては同一異称概念や反対対立概念を紛れなくし謬りを正すのでなければならないのである。
2005.12.05.
靖国問題の本質
辛島司朗