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2005.12.05.
ところで神社と神、即ち結社の「社」の伴う神社と神そのものを別とせず漠然と同じに思っているうちに、神社に詣でることと神を礼拝するということが同じことだと人々は思い込み、神社を参拝するなどという言葉が尤もらしい感じのものになってしまうが、しかし神社に詣でることは神に祈ることとは必ずしも同じではない。「詣でる」は音便を戻せば「詣いでる」であるが、「まいでる」の「詣る」は「参る」に通じて「観光に参加する」「観光に行く」にすぎない意味にもなり、「まいる」は全くと言いたくなるほど別のことにもなってしまう。私にはそう思われてならない。厳しく言えば、特に祭政一致的体質の、しかし実体を失った国においては容易に「神‐社一体」となってしまうのではあるまいか。
しかし「祈る」こと、「祀る」こととは、ましてや信ずることとは全く別事と言いうるほど隔たりのあることである。まして信ずることと「参拝」することとは全くといってよい位の別事である。私自身が無信仰者である故かも知れぬが、少くとも日本人をみている、そして神社仏閣の拝殿前でみている限り、恭々しく参拝しているかに見えて実は神社仏閣は単に願かけ所、必ずしも苦しいときや望み叶わぬ時の「神だのみ」ほどではないにしても、その位のものにしか感じられないことが多く参拝の礼は守っていても「神信心」には程遠いように思われてならない。
拝することも大まかな言い方をすれば同じくご機嫌伺いないし奉伺と然るべき辞儀と相伴する筈のことであるが、つづいて日常的挨拶に終るものを超えて尊顔を拝しての礼以上のものにしても真情を面にあらわしてやっと憤怒憎悪を防ごうとするだけの筈の弁解に進む謝りとは逆に、むしろ積極的に加護を求めて何事かを成就もしくは維持しようとすることと甚だしくよく似ている。神を拝するのも含めて、願い求めてもしくは求めるために、日常的に従順を示して加護加持のための祈祷の前段のものとしてなすところと言えそうな気がする。
この際われわれは、靖国神社に参拝することの、対内的意味と対外的意味とを無分別に混同してしまうのでなく、はっきり別々の意味をもつものと認識し、その上で分別すべきか否かの問題とする思慮分別の問題とするのでなければならない。参拝するのと願い叶って感謝するのや懺悔謝罪して謝するのとの違いは願望成就のための積極的な意味のものと、否定的場面での消極的意味のものとの違いではなく、前者が積極的な行動的行為を伴っている程度のことにしか私には感じられない。後者については当然感謝するのと謝罪するのとは意味が逆であるが、ともに慰めるのとも顕彰するのとも別である。慰めも顕彰もいわゆる意味での反省するのとは全く別のことで、何がしかの虚栄虚礼ないし虚偽によることもある。特に顕彰は積極的にそこに見られる行為を推進してゆくための前段にある前提行為といってもよい。その点で神社参拝に似ているところも感じられるが敢えて言えば、それは自己顕彰にほかならないというべきである。
当節の若者には平然として「ゆるしてくれるなら、あやまります」などと言ってのける手合いが多い。あやまりと詫びること即ちゆるしをうるために誤りや謬りを認めて謝することと侘びて詫び言をいうのとは同じでないどころか、悪く取れば後のはただの泣き落としに近いというべきである。いや泣いて見せるなどとは遥かに遠く、ずっと頭が高く保たれているものと言わざるをえないのが真相である。そのような「あやまり」とは何なのか、それが真のあやまりとは程遠いのはもと謝とは言に射からなる字で、罪に中るような応分の罪を申し出ることを言ったものとも解され、その場合、それが‘目には目’的時代の終りとともに、赦も射も言葉だけで、唯の放ぐらいの意味になり言葉だけでゆるされるようになった結果に外ならないものとも思われる。
ここにみるような混同にあるのは同じく図々しいと言いきってしまうこともできないわけではないが、図々しさというものは図に乗って図々しくなるのであり、また図には予めの測り謀りが前提されているのは言うまでもない。そこに誠意従順がみられるのか、通常にいうように、非難の意をこめて不遜傲慢という許しがたい態度によるのかでは大違いと言わざるをえない。
正心誠意が通じぬまま、何時まで何回謝れば済むのかというのなど凡そ謝のこころに反する、根本的に反するのだと言わざるをえない。大事なのは誠意正心をもってすることであり、それが通じるべき筈である謝は、先にもいったように言と射からなる字であるが、白川静が「字統」などで言うには射は会盟などの厳粛な儀式の際に行われるもので和好のための一種のcultである。cultは馴致することであることこそその基本義かつ基本儀となるものであるが、謝は非誤を認めて正直に改めることを言うものであって、その意味をうけたものであるというのが正しいらしいが、盟誓の心、改善の心が根底になければならないだろう。
真に祈ることは、真に哀切の情をもって祈念することだけの「祈り」であるならば、隠れて祈れと言われもするように個人個人のひっそりとした心うちのことであるべきであるが、逆に公人が祀り公々然として公式に祭ることは公職にある者としての本来の断固たるべき公的決意決心の闡明としての、靖国参拝に見るような場合、見方によっては戦闘的ともいえる表明表現であること否定すべくもない。とにかく表立って祀ることは決定意志の公示による統治効果のためでもあるといってよく、指導的地位にある公人に限らず、誰人の場合でも、個人をこえた社会的意味がつきまといかねない行為となるのであることを知らなければならない。公然たる公開施設への参拝は対社会的効果の面からいえば、そして特に過去の経緯からして国際的な対外的意味の大きな「靖国」神社の参拝については、正しく特別の意味をもたざるを得ない。つまり断固たる顕示的行為または示威行為の意味をもたざるをえないのである。勿論、たとえまた熱心でない儀礼的な祀りによっても烏合的集合をも目的的社会またはゆるい自然的集合に変え、はっきりした組織的な団体形成を行いうるものであるというべきであることを決して忘れてはならない。組織体の代表的地位にある者の参拝はそれ自体一つの結合の象徴的意味をもつといってよい。
現に「ヨン様」でなく「ぞろぞろ」と特徴づけられる薬でもなく、価値超越的な大量生産の工業製品でもないのに追従的参拝が直ちに行われる。これを簡単に阿諛とばかりに見捨てていいのだろうか。populismの時代を端然超然と坐したまま全然(まるまる)と迎え入れてよいのだろうか。少くともに強く祈ることも大切なことであるように思われてならない。祀って祈ること、もしくは拝み祭ることばかりでない、そもそも祈るということは心を引き締め戒めることである。しかしまた単に飾られた表象的偶像であるものさえ、それにむかって祈り願をこめることによっても力が与えられ、逆に偶像にさえ活きて働き働かす力が備わるものとなるのである。
人間の中にあって人は人を護り国を護るのであるが、護ると守るの混同から、更には護るべきものから離れて積極的に攻め立ててゆくこともしてしまうような邪信妄信ないし邪宗邪教からは明確に分別し、理路整然と論破し大いに摧破しなければならない。守護大名のように「守護」などという熟し方をさせるのは日本独特のことで、それはいわゆる国字なのである。本来中国ではその連字はみられず、敢えて言えば「まいる」ということに関しての拡張的範疇形成語とでも呼ぶべきものであるが、濃淡厚薄紅白の濃紅厚は淡白薄とはむしろ反対といっていいほど懸け離れたものであることを忘れてはならない。護は或る具体的対象を護ることをいい、守というのは礼節を守り道を守るのようにむしろ抽象的な観念的姿勢或いは無作為的行為にかかわるものである。
附言するまでもないとは思うが念のために言い添えれば、平和を守るということは安全理念を守ることに通ずることであり、国を護るなどとは種類の違うことである。はじめに述べたように、顔氏家訓に「兵は凶にして戦は危なり、安全の道に非ず」というのはそこのことであろう。安全は護るべき状態であるよりもわれわれの生きゆくべき道を守ることであり、守と漢字表記されるべきものである。
「神を祀る」という場合にはどのような神を祀るか、どのような目的でどのように祀るのかが問われなければならないが、実際神を祀るには、具体的にどのように拝まれ祭られるかも抜きには考えられない。何事についてももろもろの疑問に応答し反対を防遏しようとすれば、当事的関係者に対する意味でいう対内的には勿論、影響の及ぶ限りでの対外的にはより一層の配慮が必要となるのは言うまでもない。
それにもかかわらず、同様にして国家間に於ける所謂外交に関して関係する各国の場合はむしろ「体内的」関係と言うべく、「対外的」事柄と言い捨て、内政干渉とまで言ってその申し入れを拒否、そうニベもなく拒否してしまうのは一体どういうことなのか。そこには平和的関係のための相互尊重の姿勢が見られない。そしてかつてはブロック経済は非難の的であったが、これからは政治であれ経済であれ一体的体制形成は万国レベル単一会社レベルを超えもしくは外しても考えられなければならないことをよくよく知らなければならないのではあるまいか。
戦争を前提にせず平和共栄をもとめる友好とそのための外交の見地から見れば、明治以降のそれまではまさしくアジアの中の一国に外ならなかった日本のあり方や振舞いの変化の仕方は果してどう考えられるべきものであったのだろうか。見方によれば、「日露戦争までは肯定できるが、……」と言われるそのような日本の、それも開戦の仕方そのものという見易い事柄についてまで否定的見解のつきまとう類いの理不尽な日本の戦争はどういうことになるのだろうか。変乱兵乱の仕掛け人であり続けた仕掛け国としての日本の、昭和期以後においてはいわば天皇の名において統帥権を独占し独裁的権威を確立して、大政翼賛会体制を作り上げて大戦に突入し敗れて遂にはいま、新憲法の下でのわずかな平和民主国家期の後、その下で、国政の責めに中る閣僚とそれに匹敵する者達にそれと知れるような議正者反対者をもてない「総理」権限者の、司法立法権のみならず統帥権をも併せて掌中にしての振舞い及びその裏にある姿勢、態度はどう見うるものであろうか。
敗戦直後、戦争推進的言動をもって積極的姿勢から戦争推進拡大に力を尽してきた一団の言論的指導者の一人が「懺悔道としての哲学」などと称して、「一億総懺悔」を提唱して指導者の指導責任を覆い隠し、哀れな子羊のような庶民の犠牲者に対する責任をさえ曖昧にしようとしてしまおうとするような言論をなしたことが今なお記憶に鮮やかであるが、家庭内の一個人それも一般に個人感情的に物事をとらえ情動的に行動しがちな特徴をもつとされ「女性らしい」といわれてきた女性ならそしてまた全くの私人個人として見うる立場の者であるならいざ知らず、正しく対外的に日本を代表する総理のつづいて変らぬ靖国神社参拝を心情の吐露信念の表現としてみた時、その行為の意味はどう考えられそのような総理を良識ある人、かつての被害者今なおの忍辱者はどう解釈しうるのか。今に流行るのは「税金」「納税者」「国民の意思」などであるが、ことごとにこれを口にする国民の意思は果してどんなものなのか。得票数をなおざりにして当選者数のみを数え上げ、選挙技術が大いに物をいう選挙結果に対する勝利者即ち自民党とその連立与党及び当選者の賛美と誤魔化しの笛に踊り、あたかもその勝利の美酒による酔いを共有しようとでもすることだろうか。政府の方針への個々の一々に対する支持あるいは同意とみなすいわゆる政治家を言いたい放題にさせておく国民、正しくは少なからぬ有権者の稚気考え方が国民の意思ということなのだろうか。これはそもそも元首や代表者の指導とか統治権執行について、一体どう考えているのか。
現総理の公公然と憲法の上をゆく不逞の行為のうちというか、それとも子どものチャンバラごっこ的単純無邪気な行動とでもほかに言いようがない個人的心情優先なるものは仮にも首相たる者に許されうるのか、許しているのは国民の意思によっているということになるのか。そして被害各国の外国人にもわかるように何時か多くの日本人にもわかる筈の日本人独自のと言い慣らされてきた伝統的なものの真相を国民が知るに到り、その上でなお日本的心情による日本独特の宗教のしからしむるところと言い張りうるような千古不易の大精神とか天地正大の気と称しうるものなのか。冗雑冗長の縷言を恥じ入らざるをえないが卑賤にわたることも厭わずに言えば、死んでしまえば勝ちかとも言って呆れ惘れて済ますしかない日本の神についても、その言い分を貫きとおしうるのか。国内における独裁権力のごときものをもってそのまま対外的にも振舞えば一体どういうことになるのか。
その時々に直面して適切に考えて行動している筈の首相は一体本当には何を考えているのか。しかし何の説明も説得もないままに心中する人々は別として、真に民主的主であろうとしているわれわれはこれら諸々のことを一体どう考えたらよいのか。
今の靖国神社問題では、特にその神社の特殊性格やその歴史的経緯について考えれば、全くの一箇独立の神社として位置づけ独特に近いものとして捉えることになるのはまことにもっともなことである。首相がどのような非難を蒙ろうとその歴史上の意味からしてやむをえないことであろう。
しかし、やはり問われなければならない。首相が信念を貫こうとしているその信念とは何なのか、国の代表者として許される信念の行動的吐露として肯定しうる、いや肯定しなければ、少なくとも黙任黙許しなければならないことなのか、と。その祭祀や参拝に当って国粋思想ないし独善的ひとりよがりにもとづく独自存在性を強調し、それに過度にとらわれて、いやしくも関係諸国との和平の基礎を揺るがし、平和を乱すような敵対的意味を秘め潜めたもの或いはそれどころか強弁を重ねた強行に類するものに取られるおそれを軽視ないし無視するようなことがあってはならない。その反省あってはじめて、善隣友好の可能性が開かれるのである。
附和雷同し常心のないものは習狎(シュウコウ)し事情の変化に応じて離合集散し定まりのないものとなり、利によって集まるものは不利によって反転し、情によって集まるのみのものは浮動変動し止むことない。愛憎に任せるのも利害に委ねるのと同じく表象的行為といってよいが、国の神を祀るということは一つの国家としてのまとまりの表象であり、また選択的なまとめの行為によるものである。従って、その国家の行為として、外交は戦争の前段の手続であると考えるか外交は戦争と背反的な手段と考えるかは甚だしい大事なのである。ましてや当然に過去において自国の神を他国に祀らせたことは他国を従属せしめるか、同化させるかのいずれかを意味することであり、またもっとも安直なgenocide即ち民族族滅法であることは否定しえないであろう。凡そ神社への参拝を考えるにはましてや靖国神社に詣でるにはそのことをも忘れずに併せ考えるのでなければならない。
2005.12.05.
靖国問題の本質
辛島司朗